じりじりした毎日である

 まぁ、まじめにやっている。んが、こりゃ本来なら鬱になってるはずだな。チャネルしてもらったが、自動書記になっていなかったので質問責めにしてしまい、術者の心理が揺れたため、真意を捉えることが出来なかった。システムまでが指示するこの上げ相場に指くわえてみている日々。あーあ。
 これからどうなるんだろう・・・という消極的な想像ではダメだと言われているようだ。それはそれで気持ち悪くないけどね。

まきママから

 およそ「制約をしない教育を受けさせていると10年後に親も子供も後悔する」みたいなことを言われたけれど、制約によって人生が侵害されなかったり、制約を制約と感じさせないぐらいの個性の強さだったりするとそういう考え方になるのかなと思った。
 生きる力が阻害されなければそれで良いと思うんだけどねぇ。たぶんほとんどの人は阻害されているし、その結果競争力を削がれている。まぁ、「どんな環境下でも能力のある人間は芽が出る」んだけどね。
 制約を受けずに生きている人の力強さとか、能力とか、そういうのにあまり触れていないとそんな印象を持ってしまう可能性もあるんだろうなぁ。まぁ、ほとんどの地域と家庭は子育てって結局そういうものだろうし、停滞した社会ではそのほうが生きていきやすいとも思う。
 どのみち自分の器を超えた教育をすることは不可能だから、好むと好まざるとに関わらず、それぞれの個性、ステージ、器にあった制約をはめていかざるを得ないのは事実。
 この意味、「自分や自分の家族が歴史の被害者にならないこと」が個人的には非常に大きな目標であったりもする。多数派に埋もれて唯々諾々と情勢の変化をもろに被ってしまう家庭や教育ではありたくないなぁ。そのためには多数派であってはならないし、5歳の子供が「日本に住み続ける人は戦争の中を生きるんやねぇ」というぐらいのわけのわかっていない状況認識であってもやはり英才教育の入り口なのかもしれないと思う。そもそも何が英才であるかという認識が御受験をさせている親とは違うわけだが・・・。
 僕の世代は、やはり中学から私学に行って東大を目指すのは理屈にあっていたと思うし、楽しかったけどなぁ。やっぱりエリートと認識されるのは楽しかったよ。でも、今の時代、それはエリートじゃないもんなぁ。英才教育を受けた者だけが理解できるその功罪ってあると思うんだよなぁ。
 この変化の時代には無国籍であれることが歴史の被害から身を守る最大の武器になるはず。1次大戦なら南アフリカに逃げ、二次大戦なら北欧に潜む。そういう家族をなって行ければと思う。国が国民を見捨てようとしているこの国に体をあわせるのは、地震と嵐と山火事の中に一家で身を寄せ合いつつ突っ込んでいくようなものだろう。