ともにゃ教

近々、形にしなければならないと思う昨今。
常人にはあまりにも理解されにくいが、その体系は明快で論理的である。説明不足で人とかかわった場合、結果的に趣旨一貫していないように見えるため、その実情を詳らかに明らかにすべきであると感じた次第。

もしかしたら、ある種の教典になるかもね。先鋭度故ではなく、特異性故。
しかし、土台となる「破綻なき快楽主義」など以外の論理構成などには一般的で見るものがない。特異性は論理の土台になる出発点だけだな。この出発点から導き出される結論はそう多くはないだろう。だから、ろくな特異性などない。

多くの人が僕の特異性を言うが、世界的、歴史的に見れば、僕がまったく特異ではありえないことを知る昨今である。むしろスタンダードすぎて面白みに欠ける。同じことを二十代前半の頃に黒須さんという先達に言われたが、そのときは納得できなかったそのことが今は納得いくということは、それだけ僕は成長したのだろう。