クワドラントに寄せて

この本を読んで、自分の人生を思い返すだに再認識するのは、結局、僕は根っからの「投資家」に過ぎなかったということだ。誰が教えたわけでもなく、どんな手本があったわけでもないのに、本当に小さな頃から投資家としての感受性と個性が突出していたことがわかる。

しかし、これは投資家として優れているかどうかを示唆しているわけではない。単純に適正の問題だ。

10歳の時に「宿題ひきうけ株式会社(古田足日)」を読んでサービスの提供と利潤について感動し、17歳のときに為替で利ざやを稼ごうとし、また、生涯収入が一度にまとめて得られれば労働の必要がないことに気づいた。18歳の時に大型私鉄で多くの人が乗降しているのを初めて見てインフラ投資の優位性に感動し、22歳の頃には仕事は引退を目指して行うべきであるという結論に達した。

社会心理学の学者や哲学者には怒られそうな発言だけれども、このうちのどれひとつとっても、誰かが僕に見方を教えたものはない。むしろ僕の周りには誰も似たような考え方をする者はいなかった。

多くの人はそんな僕の個性を嘲笑するか、発想を非現実的なものとしてしか捉えなかったが、それはクワドラントの左側のふたつから見ての発想だったのだと今はわかる。先週、この本を読んだことで、ひたすら孤独を感じていた僕の感性がやっと、その裏付けを得たのだった。

で、そこから導いて思ったのは「そりゃ、まっとうな感性の人には無能に見えるさ(実際に無能さ)」ということ。書籍「金持ち父さんのキャッシュフロークワドラント」では、再三「投資家や企業家になるためには思考方法の転換こそが重要である」ことを説いているが、裏を返せば別のクワドラントでは全く通用し得ない思考方法であるからに他ならない。

それに染まれなかった僕は不器用と言うほかないが、だからこそ生まれついての投資家でしかなかったとも言えるというわけだ。

僕がこの本を読んで感動したのは、こういう理由からだと、やっと気づけた。なんであんなに感動したのかが見えてきた気がする。要するに、孤独が満たされたからのようだ。気づいてみれば僕を理解したい人以外にとってはかなりつまらん本かもしれん。