彼に書いたメールの一部

重要な何かを喚起しているのではないかと思う。

啓蒙は、僕の二十代前半からの課題。啓蒙活動の拒絶と再挑戦を繰り返してきた。多くの人は論理ではなく心で話を聞く。僕らだって40歳を越えたらどうなっているかわからない。論理で聞くことがよほどしっかり習慣化していなければ危ないだろう。比べて女性の成長力は60歳を越えてからも続くという実体験がある。

歴史を見れば、孔子プラトンが啓蒙に志して歴史的な成果を上げ、しかも玉砕した人たちだが、僕らの啓蒙活動がもし成功するとすれば、それは彼らを越えることを意味する。

ここいらの答えとしては、広告批評天野祐吉や、ビートたけしなどがモデルケースになるのではないかと思う。彼らは正当な論理が論理として心に届かずに拒絶されるのをしっかり覚悟した上で、そこにどう働きかけるのかの手法をライフワークの一部にしているかに見える。結局はビジュアルや芸術で働きかけるのが有効なのだろう。海外ではスティングしかり、ジョン・レノンしかりか。彼らが知識人であるかどうかは別にして。

ただ、身近にいるそうした人たちは、僕みたいに伝えたいことと手法を分離して考える人よりは優秀に思える。目標は器が知っているのかな。

反面、僕が彼らの志す領域に踏み込むかどうかは今後に到っても微妙。
予言通り、宗教的指導者になるのであればそうした領域にも関わるのだろうが、論理を人に届けるのは心との関わりが中心になる以上、宗教的指導者という言葉が、あるいは今僕らが気づいているような知的啓蒙そのものである可能性も多くあるし、啓蒙そのものよりは結果重視という立場になりやすい僕の性格から、手っ取り早く権威性などによって言葉を心に突き通す(串刺しにする)という方向性になっていってしまう可能性は十分にある。

こうした方法は本質的な啓蒙から遠ざかるので危険だけれども、人が結局啓蒙されるはずなどないのだとあきらめてしまえば、この程度でも十分な成果だといえる。

加えて「自己責任」は多くの白人でも身についてなどいない。人が心で言葉を聞けば聞くほど、「自己責任」の否定こそがそのしわ寄せ場(逃げ場)になっているから。

さらに、自己責任の存在を自覚する前段階である情報の評価力となると、これは知性の付与に当たるので、表面に見えているような財務諸表の読み方という表面的なものの教育を越えるよね。

君が僕と同じくそうした啓蒙活動に志す気持ちはわかるけれど、権威を持たずに知性を売ってる人っているんだろうか。情報を売ってる人はたくさんいるけれど、それはニーズに対して明確な解決策であるからでしょう?

良い組立があって何かやれればとは思うけどね。
NPO法人「家を建てる前に」というのは、そういう意味では恐怖を喚起しているわけでもなく、ニーズに対する明確な回答を示しているわけでもないので、ちょっと弱めか。

知識付与の前段の現状認識すら変化させるのは難しいからねぇ。