希望格差社会読み終わったー

 オウムに入信した後、幹部になった人が現実社会での成功者だったのは麻原の学歴コンプレックスが元になっていると思うが、彼らが入信したのは現実世界に絶望したからなのだと僕は前々から言っていた。一般社会で「こうすれば幸福になるよ」といっていることを片っ端からやってみて「ダメじゃん」という実感を持って、現実離れした教団に入信しているわけだから、その教団の現実離れは甚だしければ甚だしいほど良い。

 今の日本社会を覆っている幸福感は感じる幸福感ではなく「なる」幸福感なので、辿り着いたときにそこには何もないという状況になりうるし絶望をも与える。この図式の中で素晴らしいのは多くの人が「なる幸福」を完全には現実化できないということである。本当に得たいのは心の平穏だったり、充足感だったりするのに、それを得るために別のものを目指してしまう罠は、こんな形で結構健全にヘッジされている。

 しかし、「何が欲しい?」と聞いて、「お金」と答える人が多数いる中でも、経済的には明らかに逼迫を生じる「家の購入」などという「なる幸福」は結構満たされるようにこの社会は出来ていて、そうして得られたものに満足するという作業は結構行われているはずなのだ。

 何が言いたいかというと、方向性は違っていても、とりあえずの人が充足を得るのは「現実を理想に近づけたときと、理想を現実に近づけたとき」の2種類だけれども、これまでの世代が努力によって前者ばかりを達成してきたかというと、それはそうではなく、実はその構造の中には後者もかなり含まれているということなのだ。

 本書の中では、「今現在、フリーターをやっている人や、パラサイトシングルをやっている人のかなえられる可能性がない夢は、それがかなえられないとはっきりしたときに絶望になる」と主張している。しかし、そうしたことは「億万長者(何を指すのかさえ不明だが)になりたい」という経済的夢を持ったことがない人は少ないが、全然方向違いに持ち家を購入して経済的に逼迫するぐらいで満足してしまっているという現実からも、それほど強くは危惧されないだろう。多くの人はそもそも、希望と幻想を食べて生きているのだし、それは目の前にあるモノを見ても感じるよりは図式に当てはめて考えることに長けているということになる。これまでの世代の努力は、それなりに報われてきたと見ることもできるが、それは「物質で心を騙す」作業の繰り返しだったとも言える。

 もし、これまでとこれからの若者世代にその差が生じるとするならば、理由はどうあれ「物質で心を騙す」という作業を出来ないような感性の強い世代が生じたということであり、総和快楽主義の立場から見れば進歩である。現実の自殺は40代のオールドエコノミーで一生を過ごせると思った人たちの思い違いから生じており、今の若者世代がそのままそれを受け継ぐとは考えにくい。むしろ、受け継ぐのは正社員になっているほうのグループであり、もともと寄る辺ない生活をしているフリーターがその生活基盤を失ったところで、自殺に追い込まれるほどの絶望(現実的な餓死はあるとしても)は生じないだろう。本書はニートやフリーターについて、学者なりのデータを下敷きにした視点を提供してはくれたが、今のところの印象の範囲では切り口違いの感想を持っている。

 同時に、スローライフなどへの転換が可能だろうかと、筆者は懐疑的に見ているが、人は幸せになるためならどんな騙しだって信じますよ。持ち家神話がそうなんだから、社会全体で新しい洗脳形態を探していけば、それなりの落としどころはあるんじゃないだろうか。

 対処としての提案である「公共レベルでの生活リスクの回避支援」というのは、素晴らしいと思うが、その前段にはまず持ち家神話の破壊と消費の見直しがあるはずで、そうして意味では、卑近なところで僕と同じなのねと思った。お金がかかるヘッジではなく、知識によるヘッジがまず最初でしょ。

 結果、恐らくそのヘッジを多くの日本人が学ぶだけでも日本経済は相当に縮小するはずだが、それはそれで停滞社会を生き抜く方向性が出て良いのではないだろうか。その世界はモノはなくても幸福感が強い社会であるはずだ。これはつまり、キーワードにすると「目指せスペイン!」であるとして、この項を括ろう。