僕の希有な結婚

 なんだか最近、文章の端々に僕が普通じゃないことを書いているので、人格全体に疑いがかかるのではないかと思い(笑)、前々から書こう書こうと思っていた結婚の話を書きます。希なケースではあるかもしれないけれど、収入がないと結婚できないとか、食わせてもらうしかないとか、そういう決めつけが多くの人を不幸にしているのは悲しいことです。

 出会ってから結婚を決めるまで、だいたい2週間ぐらいでした。で、実際に出会って四ヶ月後には結婚し、出会って一年後には子供が生まれる直前でした。だから、結構な数の人たちが出来ちゃった結婚だと思ってます。希望格差社会の山田教授の統計では婚姻後10ヶ月以内に生まれた結婚を出来ちゃった婚と規定しており、統計上はこれに当たります。9ヶ月で十分なんですけどねぇ。

 一般には、こんだけのハイスピードならさぞかし情熱的だったかと思うんでしょうが、お互いに全くそうではありませんでした。恋愛感情はほとんどなかったです。枯れた老夫婦のようでした。

 当時の僕はあだ名がドラえもんでした。このコラムのごとく、口をついて出てくることの多様性、奇抜さ、空想性、どこか使えない道具のようであることなどが四次元ポケットにたとえられていたのと、体型がそれ系であったのと(165センチ67キロぐらいですが、引きこもりで筋肉がなかったためお腹が出ていた)、必殺技が「どこでも居候」と「大風呂敷」であったこと、直前に居候していた家で着ていた部屋着が水色であったことなどがこの名前が周囲で大ヒットした理由でした。

 そういう経緯もあり、言っていることが実際に実現できるとはみんな思っていなかったため、結婚すると言い始めて粛々と準備が進み、入籍一ヶ月前になった頃(出会って三ヶ月後、結婚すると周囲に言い始めて二ヶ月とちょっと。式場の予約も終わり写真の前撮りも終わっていた)、その話がまだ進行中だったことで多くの人が本当にびっくりしました。



 プロポーズの時の言葉は「金は稼げません、浮気をしない自信もありません」でした。まぁ、無茶苦茶って奴です。しかし、普通に両家が対面し、普通に両家に祝福されて、それなりに結婚にこぎつけました。僕にしてみれば、誤解がないようにしておきたかったということになります。何らかの建前的責任が伴う結婚など、どう考えても僕の精神的病状を悪化させるようにしか思えなかったせいもあります。

 また、僕のほうの事情としては、勤務が難しかったためにやむなく手を着けた自営業がごく普通の勢いでどうにもならなくなり、結婚できなかったら今度こそ数ヶ月後を越せるかどうかよいよわからなくなっていた時期で、人生継続のためという意味合いも強くありました。にしても、結婚そのものが失敗するのであれば人に迷惑をかけないように死んでいったほうが良いわけで、プロポーズの言葉は僕なりに腰が引けていたことの現れでした。

 当時、経済的にはそのまま2年以上の無収入時代に入った頃でした。とにかく一息つくことが出来れば、その後の人生を建設的に立て直せる漠然とした希望はあったものの、一息つけない状況の連続で、普通の人ならねじれながらでも立て直せる経済状態が、僕にはどう考えてみても無理に思えていた頃でした。

 家内がなぜ僕と結婚したかを、今でも多くの人が不思議に思いますが、それも恋愛的情熱あってのことではなく「なにか大きな流れが結婚に向かっている気がした」だけでした。農家の一人娘で小さい頃からずっと婿養子をもらってくるように言われていた彼女は、恋愛はそれなりにしてきたようですが、三十代後半になっても結婚したくないという固い意志を貫き通し、ついには保守的な親戚中が彼女の結婚をあきらめていた状態でしたが、別段情熱的でもない僕との出会いで結婚する気になったのでした。つまり、彼女が僕と結婚したことには、僕を含めた他人に理解できるような理由は一切ありません。



 長くなったので、続きはまた明日。書いているうちにどんどん継ぎ足されてしまった。書き方によっては先も長いし。「それから」ぐらいの文調にして、もっと詳しく書けば私小説になりそうな勢いだなぁ。ネタが尽きなくて良いし、詳しく書き直して、小出しにするかも。

・・・・当時の私は、自分の心の病のことで様々な場面で死と向き合って生活することにすでに疲れておりました。しかし、少しずつ確実に忍び寄ってくる死に、自分のはかない命の炎が消されるのをなんとかしたいという思いが募ってプロポーズしたことを、今になって後悔する気はありません(当たり前かw)・・・

 しかし似ないな(自爆)。似せたかったら書く前に一回書写しないと。これじゃただの純分学風小説に出てくる「それから」系手紙だ。ブックオフで調達か。