アクセス解析からたどって

 OCNサーチなんてあったのね。

 たどった中に
 http://tea.anys.ne.jp/mito/modules/news/article.php?storyid=171
 と、書かれていた。

 この書き方に対するとそんな人も多いのかな。

 僕の家庭の一時期以上に腰を据えて貧乏を経験したことある人はそう多くはないと思うが、少なくとも「稼がなければならない」という強迫観念は、多くの人をお金に拘泥させているように思う。

 「じゃぁどうしろっていうのさ」という人には、「『とりあえず来月こそはやっていけない』というところまで行き着いてみて下さい」と言える。実際にやろうとすると、ほとんどの人はその切迫感に苛まれてそこまで行き着くことが出来ない。つまりこれが、お金に囚われているということ。あー、この過程で、借金はしたらイカンよ。ほんとにやばいときに生活保護も受けられなくなるし。

 それぞれの人、それぞれの限界、それぞれの優先順位の中で、健康な人は出来ることをやって生きている。病気な人もそうだけど、健康な人から見ると出来ることの数が少ない。ただ、その結果、真実に近づけるということはあると思う。何が奏功するかわからないのだ。

 これはつまり「風邪ぐらいでは頑張って働けてしまう人は、風邪で死んでしまうことがある」けれど、「風邪で寝込んでしまう人は、風邪で死んでしまうことが少ない」というのに似ている。

 お金がなくなることに恐怖を感じるのは、現代社会ではごく普通のことだし、そのために働くのも普通のことだけれど、その普通のことが出来ない人の方が、「出来ないこととできること」に対するセンスを持っている可能性は高い。まさか、それを悟りとまでは言わないが、「やらなければならないと感じたことは、可能不可能に関係なくやる」という人に比べて、人生における気づきは大きく、修行は少ないような気がする。

 どう書いても、多くの人に通じるような表現にならないねぇ。

 腹なんて立てなくても、子育てをしながら仕事をしたいと思い、そうできるのであれば、それはその人のやるべきことなのだ。ただ、やらなければならないことをもっと別のイメージに置き換えることが出来れば、人の能力は無限であるので、それを達成するべく物事を為していく可能性は(僕などの病気持ちに比べると)高いはずなのに、そこに魂の牢獄をつくって自分で入ってしまっているところに、残念さは感じる。

 「結婚もせず、働きもしなくても子どもと一緒にずっと過ごして子育てをする方法」というのを模索し、達成することは誰にでも出来るのに、多くの健常者はそういう目標を設定することすらない。

 これが宮司が言っていた「牢屋を自分で作って入っている人」である(なぜか聖書風)。この病は死に至らないが、可能性を死さす。健常者が何かに腹を立てるときは、そこに新しい可能性が隠されていることは多いような気がする。

 ちなみに、病気持ちは何かが出来ない苦しみの中に新しい可能性が隠されていると思う。