なぜキョウのシァンは旅に出たか(馬鹿馬鹿しい話)

 諸星大二郎太公望伝の中にこんな言葉があったような気がする。

 自分でファンドを組みたいと漠然とは思っていたものの、その理由については光が当たらず、漫然とそういう作業に手を出すのはどんなものかとも考えていた。ただ、先日聞いた話で、「アメリカにおけるリッチとは、キャッシュ、タイム、フレンドの三拍子が揃って初めてリッチである」というのがあり、まぁ、昔から僕がコラムなどで言っていたことをはっきり具現化した言葉だったため、改めて考えさせられた。

 恐らくこのままでも、5年後にある程度の金融資産をつくってセミリタイヤするという最低限の目標は達成されるだろう。そのことには、自分たちも、周囲も、ほとんど不安がない。そもそも「達成できなかったら死んでやるぅ」という目標ラインが低すぎるという指摘もされた。

 ただ、そのなかで、あるいはその過程で、別の言い方ではセミリタイヤという人生の通過点を経て、自分が何をやっていくのか、どんな人生のグランドデザインを描くのかというのは、ほとんど描けていなかったと言って良い。これは政治的革命家であることを半ば必然的に捨てた頃から、「とりあえずは生きるために働くことから開放される」という刹那的な目標を立てていたからだ。

 で、その後の人生デザインについての、ひとつのプランが今日、まとまった。突飛ではなく、これまでも何度か漠然と考えていたことの確定化だった。それは

パワースポットにおけるスピリチュアル城郭都市の建設

である。

上場という形であるかどうかはわからないけれども、僕が資金を得たならば、これをやりたい。少なくとも今は。これは今日初めて思いついたことではない。ただ、その理由は良くわかっていなかった。ここまで書いてみると、理由がわからないと本質的な行動に移れないタチなんだなぁと思う。

 で、今日、自分の世界観に従った大義に行き当たった。

人類人口1億人になっても、現文明の文化と文明の片鱗を維持できる場所

ということだ。

 この文明世界がきっちり滅びつつあるという認識を持っている僕にとって、また「現代文明の痕跡は2000年でほぼ発掘不可能になるので、世界規模文明の発生から滅亡まで7000年を1タームとすれば、過去に高等類人猿による文明が数回存在していてもおかしくない」というオカルティックな確信によっても、この目標は大きい。

 エコロジー活動は、場当たり的な延命措置に過ぎないように思う。もっと強い危機感でリスクヘッジをしていかないと、悲しみは減らない。

 恐らく前の文明終焉でも同じ様なことを考えた人はいただろう。部分的にはその目標は達せられているのかもしれない。

 このスピリチュアル城郭都市は少なくとも近代民主主義体制ではないと思うし、その初代執政官にはダライラマ(14世である必要はないが、おそらく14世だろう。論理的にはおかしいがなぜかそう思う)を希望する。

 ま、妄想だが、僕がどこかで上場までして資金を集めるとすれば、このぐらいの目標が必要だなぁと思った今夕。みなさんいかがお過ごしですか。

 「また来世」
 っていう「とっぺんぱらりのぽー」は、相当気に入ってるんだけど、僕のオリジナルではない。