人は変っていくものよ。私たちと同じように・・・

 「認めたくないものだな若き日の過ちというものを。坊ちゃんだったからさ。」
 
 しかしだ、現実に成長し続けられる人間は多くはない。主な原因は、歳をとるにしたがって、人は過ちを過ちと認識できなくなる。坊ちゃんだったとはいえないからね。
 ならば相手が変化しないということを前提にお付き合いするのが大人でしょ?つまりこれば「君子の交はりは淡きこと水の如し」ということだと思う。「過去と他人は変えられない」

 状況の改善にこそ労力は割かれるべきである。優先的に原因の追究に労力を割くのははっきり無能だ。同時に原因を追究しないですむ問題の範囲は、器に左右されると思う。「優秀な人間は最悪の状況を想定しながら楽観的に行動する(カーネギー・太田が好きな言葉だった)」楽観か悲観かは、状況と自身の問題処理予測範囲が対比された結果判断されるはずだから。

 最低限、上記の境地に到達できるかどうかは、成長力にかかっている。そしてその成長力は過誤認識力を基本とする。過誤認識力の基礎は器と成長経験が規定している。これはつまり「怒りっぽくなる・・・おなかがすくじゃないか(風・・・桶屋的ループ)」に相当する。

 そうした比較的冷徹な現状認識を乗り越えて「人は変っていくものよ。私たちと同じように・・・」という言葉は慈悲深いのだと思う。僕は慈悲深くない。「他人を変える作業&君子の交はり」の絡みもあるが、過誤認識力のない人を弄ろうとしない。忠言は役立つ人にこそ発せられるべきであり、リソースの浪費をすべきではない。冷たいかねぇ。で、僕は僕に対する忠言には効きがあると思っていただくのに常々必死である。まぁどうせ限界はあるんだが。

 この路線で僕が様々なものを包含して来た(実際ノンストレスだったしぃ。包含するのもまた器かなと思ったしぃ)人間関係が、ついに僕以外の人との関わりで臨界に達した。臨界の達成の仕方は「日本の洋食店にに迷い込んだ中国人が、食べかすを床に棄てているかのごとく」であった。目撃者・報告者には「さすがに尋常ではないと思いましたので」といわれた。「臨界はチャイナシンドローム(旦那様は悪魔?奥様は魔女?)」という器ではない。しかも、本人には自覚がない。さすがに黙っているのは義に反するであろう。

 対話的人間力が低い人間に、本質的問題を突きつけるのはなかなか怖いものがある。こっちの対人ストレス耐性が相手を上回っているのが明らなので、どう逃げられるかが不安だ。逃げちゃうかなぁ。しかし、この程度の恩返しは僕がやるべきであろう。ほかの人はやらないであろうから。もっといえば、逃がさずに対峙させるのが今回の課題になってしまった。うへー。慣れないことをやるのは骨が折れる。

 決戦は水曜日(今夜じゃん)。湯水のごとくリソースを浪費することとする。昨日も疲れた。