科学的態度とは

 コラムを書いたので部分抜粋してここに載せる。

科学的態度とはなにか

 証明というのは、科学の言葉です。たぶん、本来は数学の言葉だと思います。では、科学とはどのようなものでしょうか。自分の考えでは「いつ誰がどこで考えても、同じ仮定からは全く同じ結論を導き出す考え方」ということになります。これは覚えるというよりは身につけるというほうが近い印象になります。ただ、多くの方が考えているほど科学的であるということは簡単ではありません。というよりは非常に難しい態度といえます。今回はこの問題について書いてみたいと思います。

たとえば、「原発が安全である」とか「遺伝子組み換え作物は安全である」「非・遺伝子組み換え作物は安全である」というのはいずれも科学的表現ではありません。「安全」というのは「危険が存在しない」ことでしか証明できませんし、科学では「Aが存在しない」という証明はほとんど不可能だからです。!!!!!!!難しいでしょう?

表現を変えると「地球上に長さ300メートルの生物はいない」というのはどうでしょう?地球上のすべての場所、人類が到達したことがない深海や、火山の中、溶岩溜まりの中、そのすべての場所を探してみて、太さ2mmの生物まで見落としがないという状況で、探し残しがない状況で「地球上で最長の生物は100メートルだった」という結論が出て初めて、「地球上に300メートル以上の生物はいない」という結論が出せるわけです。つまり、この証明は我々には不可能です。

 しかし、多くの場所で「安全について確認された」と表現される昨今です。この手の表現を注意深く観察するといくつかのパターンあります。
1、 科学を全く身につけていない人の適当な発言
2、 科学を身につけていることになっているが、科学的考察能力が足りない人の発言
3、 科学を身につけていて能力もあるが、わかっていて嘘をついている発言
です。

 たとえば、狂牛病の問題で「アメリカ産牛肉は安全だ」と言っている人の多くは1番で、中に3番の人がいます。この問題の第一人者で、まじめな科学者である諮問委員会の座長が強硬に降りようとした(結果的には名前だけ留任させられたように思います)のは有名な話です。

 この手の例は一ヶ月のニュースの中に最低数個はあります。民主主義の基本は「すべての有権者が自分の頭でものを考えて決断すること」ですが、そもそもマスメディアによる情報がゆがめられている上に、その情報の処理を間違うとすれば、まっとうな民主主義の遂行は期待できません。

 南京大虐殺の有無などで科学的結論が出づらいのは、歴史問題に関してはこのような科学的態度に基づいた証明を行うには双方の示す証拠の劣化が激しく、曖昧であるために、科学的な証明にはなりえないという点にあります。これは多くの歴史問題を議論している方々の双方に言えることだと僕は思います。

証明でないことを信じるのを信仰と言います。しかし、信仰(ある種の直感)を持っていないと科学の究明は出来ませんから、信仰が別に悪いことでもありません。むしろ必要です。単純に証明されていない確信というだけの話です。たとえば、しっかりした科学者であった精神科医ユングは近い将来に証明がなされるであろうと考えていたものの、現在に至るも超心理学は未だに科学にはなり得ていません。

 非常に大きな問題なのは、非科学的発言を行う方々には善意の方も悪意の方もいらっしゃるということなのです。つまり、科学的態度から見ると間違ってはいるものの、その善意は疑いがないという方は大変多数にのぼるわけです。(発言者自身は科学を身につけてはいるが、科学的態度を持っていない方々を善意的動機から扇動しようとする非科学的言説もたまにはあります。)

 枚挙にいとまがない中から、ここに書くのに障りが少なそうな例として「ゲーム脳」というのもあります。提唱者ご本人の善意、悪意は存じませんが、証明過程自身は徹頭徹尾、科学とは呼べない言説の塊です。ご本人は科学者でない上、脳についての専門家でもなく、最低限の統計的手続きすらこなせていません。

 しかし同時に、科学とは「否定できないものを否定しない」という態度でもあります。ゲーム脳に関する言説(証明)は全く科学ではありませんから、簡単に否定できますが、結論を否定するのとは別なのです。科学的手続きで「ゲーム脳」と同じ結論を導き出そうとしたとき、同じ結論になる可能性は限りなく低いもののゼロではないからです。否定された証明が「ゲーム脳」ほど非科学的であればなおさらです。科学は考え方の道筋を規定しているだけであり、考え方の道筋が間違っていたからといって結論そのものが否定されるのとは別問題だからです。

 これはたとえば、シャーロックホームズの中の「この大きな帽子の持ち主は、脳容積が大きい。だからこの帽子の持ち主は知能が高い」という言説などが良い例でしょう。現在の科学では「人間の脳容積と知能の相関関係は見られない」ことが明らかですから、この言説自身は間違いですが「この帽子の持ち主の知能が高い」という結論は、脳容積の法則の正しさ(証明の正誤)と関係なく正しい可能性が残っているわけです。(ただ、様々な角度からの反証が多数存在していることなどから、ゲーム脳の結論が正しい可能性はこの知能の結論のように高くありません。また、証明の否定と結論の否定を同次元で捉えてしまう科学的態度の方も多数います。)

科学を身につけるということについてご興味のある方にはこのコラムの最後に優秀な参考書籍と、参考サイトをご紹介しておきます。

参考書籍
「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た (単行本) 村上 宣寛
(世に広く普及している適性検査の多くは、著しく信頼性を欠く詐欺同然の代物だった――。これまで右へ倣えで高額な適性検査を外注してきた社長や人事担当者が知ったらゾッとするような“ウソ”を、心理学の第一人者が痛快に暴露する。レビューより)

参考サイト
水商売ウォッチング< http://atom11.phys.ocha.ac.jp/wwatch/intro.html >
 否定に終始せずひたすら科学的態度で水に関する言説を観察したサイトです。たとえば「活性酸素」「クラスタ理論」というものが各言説で用いられているものとはまったく別モノであることなどについて細かく触れられています。