夜はNGOの会議に

 新しい事務所に初めて訪れた。なかなか広い。仕事場には出来るかもしれない。
 ちょっとした飲み会になって、チェコの話などを聞きつつ、選良性と民主主義について、三里塚の闘士に聞いた。社会の断絶はより深くなり、セクションごとに隔絶されつつある。あらゆる方向性で。
 そのなかで、昔はなにかを共有できていたが、結局のところ、このような会議も選良を代表するものでしかない。僕はこのことに二十代前半で気づき、そして貴族主義指向になった。華族の彼と仲良くなったのは僕のそうした発言からだった。「文明は格差が作る」という科学的事実はある。希望格差という言葉を知っているのは、被害者の側ではないと山田も言っている。
 それをどう考えるのかをその闘士に聞いたら、「異なるものの交流で文化は生まれるのではないか」との答え。さすが、言葉の重みが違いますな。
 要するに、現代の現実のマーケティングがセグメント絞り込みによって成り立っているのはそれが簡単だからだ。絞らずに成功させるためにはなんらかのブランドにすがるしかない。そのブランドも細分化されつつある現代だ。異なるセグメントとの交流は手がかかる。そもそもその労力をかけて壁を越えることの意義を多くの場合は見いだせない。
 僕が普通の人よりも多様ななにかと交流可能なのは、様々なアクセスチャンネル(というよりは人生経験)を僕が持っているからにすぎず、違うなにかとの交流を計ってのことではない。そんなこと、30代半ばの今になって可能なはずはないだろう。自分の中に両翼がいるから交流できる。ま、両翼がやり合えるのもなんらかの共通の言葉を持っているという意味では似たようなセグメントということになるね。
 子供をほったらかして遊び回る家庭を作っている親か、その子供と僕が交流しようなんて、並大抵の努力ではないだろう。いじめで子供が自殺して学校を責める親と僕が交流するのはほとんど不可能だろう。年収250万円で800万円の中古住宅に住み、厚生年金を納め、自営業をやくざな生き方だと思う社会弱者と僕が資産運用と円破綻について交流するのは、ほとんど不可能だろう。
 この闘士は、その作業から文化が生まれると言っているのだ。含蓄あるぜ。