「運が良かったね」と言われると・・・

 基本的に気分を害する人がいるが、まぁ、僕から見るとそれは「苦労をした経験が少ない」からだと思うのだな。
 この「苦労」というのは客観的な量ではなくて、主観的な量なので「幼い頃から貧しい片親家庭に育って、そこから努力して医者になった」とか、そういうのでははかれないのがミソ。「かなり裕福な家庭に生まれ育ったのだけれど、人には見えない精神的大病をして本当に思うままにならないことばかりでなんとか生き残ってきた」というのと比べて、どちらが苦労が多いかは別の問題だ。どっちかっつーと、努力の量とは関係なく「明確なビジョンはあったものの、それが果たされないなにかの経験」と言った方が良いだろうか。
 で結果的に何が違うかというと、感謝が違うんだよねぇ。感謝が違うっていうのは、いろんなところに違いが出て来るんだけどたとえば「感じる幸福と、なる幸福」とかだったりもする。もちろん、これは外向性が強いか内向性が強いかにもよる。概して外向性の人の幸福感はなる幸福になりがちで、それでもあまり問題にならない人も多いんだけど、内向の人の「なる幸福」というのは地に足が着いていないので、周囲で見聞きしていても非常に厳しい。つらいのだ。ただ、日本の教育環境は概して外向的幸福感のみを追求する傾向が強いため、本人も成育過程で内向的幸福にたどり着けていないことが多く、感覚がないものは把握できないので話しても話にならない。
 たとえば僕が先日書いていたような「熱があったときに家内のそばで横になっていた」ような幸福感をそういう人の口から最高レベルの幸福として聞くのはなかなか難しい。
 戻って、感謝が違うのが一番出て来安いのはやはり「運が良かったよね」と言われたときだとおもうね。「運じゃないよ努力だよ」と言いたくなるのは、「努力でどうにもならない経験が少なかったラッキーなひと」という規定になってます。個人的には。まぁ、僕もそうだったし。
 努力でどうにかなるものなんて、その程度のモノにすぎないんですよ。きっと。で、「自分で行った努力の結果得たモノ」に対してそんなに感謝できるもんじゃありませんぜ。そもそも、努力の結果得たモノなんて、そのものが「なる幸福」の代表格で空疎だしね。でも、こういうのって、自分が断ち切らないと家庭文化の中で受け継がれていくもんだしねぇ。
 「感じる幸福」は人に説明してもわかってもらいづらいのであまり説明したり宣伝したりしないけれど、「なる幸福」は説明しやすいので結果的に宣伝しがちというのもあるかも。個人的に言えば、突っ走って努力で得られないモノを決定的に経験して身にしみた後で、もう一度戻るしかないんでしょう。ちなみにこういう構造故、外向的な人の幸福量は、内向的な人の総量よりも少ないのではないか(しかし、獲得はしやすい)と僕は思ってます。

 別の軸では女性には戻るまでの時間がかなり許されているけれど、おそらく男性には40歳ぐらいまでしか許されていない。40歳を越えてパラダイム転換できるほど男性の頭は柔らかくないので。