僕もビョーキ?

難しい命題だ。実際、この状態に慣れているからなのか、不健康感はない。
少なくとも多くの人に認められるように普通には生きられないんだけどね。

しかしたとえばこれ
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/yomawari/
とかからすれば、結構当てはまる。
一番目と四番目。

二番目と三番目は、奇跡的に症状が弱くなってきているといえる。
五番目は当てはまらない。が、すでにそういう人がいるので困っていない。

五月の下旬に、死に方ではなく、生き方を模索することになってしまって、それは結構大きかったといえる。そして、その結果、親に捨てられることが怖くなくなってしまった。つまり、これまでは親に繰り返し捨てられることが怖かったと言える。


ただ、僕には夜回りをして誰かを助けるといった動機はないなぁ。
出会った人にできる範囲で何かをするというのはまだありえても。
こういう人も必要なんだろうけど、それは「文明とは原始社会では生きられない命が生き延びる過程、言い換えれば種としての生存可能性の拡大が生み出す多様性」と考えているし、まぁ、僕なんざ文明社会以外では確実に死んでいる(自殺でなくて)はずの人間なので、その道筋の上にあるという意味では感銘は受ける。

この先生はおそらく、かなりしっかりと自覚していると思う(だから気持ち悪くない)けど、ビョーキでないと自覚している人も、実際ビョーキではない人も、みんな確率の片方を生きているに過ぎないという意味では、僕だけがそういうわけでもないと思うし、みんな助け助けられている(確率からにせよ、他人からにせよ)のだと思う。

こういう言葉ではなかったけれども、僕は自分の生存を「生きていていいのだろうか」という言葉で自問したことがない。この辺は健康なのか不健康なのかもよくわからない。生きているんだから生きていていいはずだし、だめなら死んでしまうはずで、僕が判断できるようなことではないので。

僕は「破綻のない快楽を求める人」なので、気持ちよければそれでいいし、死んだほうが気持ちよさそうだと思ったら自殺すればいいと単純に思っていた。本当は自分で判断できないことを判断するのは時間の無駄だし、そんな暇があったら気持ちいいことを探していたほうがいい。

最近の大きな変化は、「たしょう気持ちの悪い状態でも生き延びる動機」が出来た(生命保険で巨額の補償を得ても生きていたほうが良いといわれた)ということになってしまったことで、これを一概に健康というのはどうかと思うが、世間ではそう表現しており、結局、こうした愛の経験をした人が健康に見えるという現実はあるだろう。