希望格差だってさ

 2日前の生テレビを見ている最中だ。希望格差社会もまだ中途。

 個人的なことを言えば、80年代後半、社会格差が少ないことで努力による人生の結果の差を認識できず、僕を努力に駆り立てなかったため、社会が二極化するということ自身は人生に活力を与えるんだと思う。能力があってもなくても、その結果が似たり寄ったりではモラルハザードが起きるのは当然だ。努力の方向を変化させて公共工事生活保護として利用するような人たちが出てきたのは普通の成り行きだと思う。ただ、その結果の間に乗り越えられない壁があることが問題なだけ。少なくとも再挑戦を認めることで、回避できる希望格差は大きいはずだ。

 結果的に差が付いてしまったこの社会だけれども、多くの50〜30代の人は、建前上であっても努力が実ると思いたいし、同じ能力の人間がフェアプレーかスタンドプレーで戦ったとき、例外を除けばスタンドプレーをやった方が勝つという現実を認めたくないんだろう。ということは、それが幻想であったとするなら、幻想に依存した甘い社会なのだと思う。幸せなことだ。

 このままだとどうなるかというと、徐々に文盲率が上がってくるような事態に突入するんだと思う。そうしたとき、本当に基礎教育の重要性が再確認されて、振り子が戻ってくると思う。

 政治に興味がないと公言する人は多いが、本当に世の中が貧乏になってしまえば、限られたパイにみんなが集中する以上、利益調整機能が絶対に必要になるはずで、そのときには政治に無関心なんて言ってられるわけがない。限られた公共工事、限られた公職、限られた生活保護、限られた行政サービスといったところか。ここでもまた、まだまだ日本人は余裕があるのだとしか捉えられない。

 そうした社会の中で、努力する気を持つのも、希望を持つのも、リスクヘッジするのも、すべての人に自由だし、実際に可能性は存在する。僕は二十代前半から40歳での引退を目標にしていたが、それは精神的病状でなんの労働もできなかった時期ですら変化しなかった。冷たい言い方をすれば、その希望を持たせるのは志であり、志は器を映す鏡だと思うが、宗教の力も小さくない。民衆の阿片とはよく言ったものだけれど、恐らく希望格差を埋め合わせるのは、大人の制限された思考能力ではなく、想像する力、想像したものが現実になるというスピリチュアル信仰であるように思う。間違っても信仰すれば物質が豊かになるとかいう御利益信仰ではあるまい。

(と、ここまで書いて自然の摂理で小部屋に座って続きを読んだところ、まだ読んでいないところで宗教の機能について触れてあった。やっぱり最後まで読まないとダメだ)