再びニートのこと

 僕などは正確な意味を知らない「ブログ」という言葉は、場合によっては「日記」などに置き換わるような使い方をされている瞬間を見ることもあるのだけど、当初の個人的理解では「リンク貼りっこ」という理解だったように思う。loveless zeroさんなどをざっと見てみるといろいろ面白く真剣な議論が僕の知らないところで起こっているものだと思う。(書き終わってみると、結構スピリチュアルになってしまったが・・・。)

http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20050130
などで、いろいろ真剣な議論が為されている。しっかり読み込んではいないけれどね。

 こうした多くのニート論で一番僕が引っかかるのは、「自分の境遇と比較して」という論調が多いことだ。これはつまり、日本人らしい妬みの文化なのかと思う部分もあるのだけど、前にもここで書いたように、財産家は妬みに思っても叩けるほど弱くなく、引きこもりは病気というおかわいそうな認識があって自分が優位な立場にいるため叩けないし、パラサイトシングルは一応労働のつらさを共有しているのに対して、ニートだけはこのすべての構図から外れているため、思うさま叩けるといった感じを受ける。

 その現実的な生活ぶりは、明らかに財産家のそれと似ていて、その出発点は「ねたましい」であるように見受ける。だから養護されるべきとか、論がくだらないとか言ったことは、総和快楽主義の僕は思わないけれど、書いている人には「もっと楽になりましょうよ」とは思う。

 自分を許せない者は、他人をも同じ理由で許せない。自分の周囲で嫌いな人のどの部分が嫌いなのかを考えてみると良い。自分で同じ行動をとったときに自分を許せなくなるというのは結構多い現象なのではないだろうか。

 だから僕は、ニート糾弾論を具合のいい吐き出しカウンセリングに見える。ニートを糾弾する人は、自分がニートになることを許せないことが多い。それが良い悪いということではないが、その結果、多数のリストラされた人たちが自己破産の手続きもとらずに自殺していくのは、寂しいことだなと思う。自己破産は生活を破綻させないための手続きだ。そうして自分の実際の姿を認め、それを受け容れて生き恥をさらすことで、(スピリチュアル的に言えば)この世に残ってすべき修行はたくさんあったんじゃないかな。

 裏を返せば、自分がニートであることを許せないんだから、人がニートであることを許せるはずはないでしょう。この構図がはっきりした時点で理由はすべてあとづけ。社会学の話ではなく、書いた人の心の問題。自分がニートでも全然構わないし許せるという人が、ニート糾弾論や対策を考えるのならまだわかるけれどね。

 未来のためにに努力してもそれが報われる可能性が低い以上、未来に生きることは出来ない。過去に許せない人はいたかもしれないけれど、その恨みが報われることはありません。今を生きましょう。今を感じましょう。ニートを糾弾する文章を書くぐらいなら、ニートになった自分を許せるように楽になりましょう。

 別にニート問題じゃなくっても、一般的レベルの労働対価で家を建てた時点であなたの人生は火の車でっせ。自己責任の範疇で先読みの悪かった判断や、楽に働けていない現実、リストラの恐怖、家庭生活の不和などのしわ寄せを、年金や社会全体の景況や人口動態などと絡めてニートに遡及するのは、ちょっと厳しい気がします。あたかも現在の政府や生活が自分のこれまでの人生に迫ってくる天変地異と同じ様な不可避な状況で自分にはどうしょうもないと言ってるような気がして、それだけで負け組の条件を整えているようにすら思います。

 つまり、ニートに近くてニートに落ち込んでしまいそうだからニートを憎むのでは?

 94年頃だったかな、平成維新の会一新塾(本科第一期)というところに通っていたことがありますが、ここに来ているみなさんは一般社会でも相当の勝ち組ですから、そこでの雰囲気と来たら、僕との間でこんな会話が繰り返されるような感じでした。「自由競争させてくれよ。俺はチャンスが欲しいんだ」「しかし負けた人はどうするんですか?」「俺が税金払って食わせてやるから、公共工事補助金や変な既得権なんかを生活保護代わりに利用しないでじっとしていてくれればそれで良いんだ。社会全体が高効率化するんだから」ってぐらいの勢いでした。自分の背後にニートが何千人しがみついていようとも、全然お構いなしです。

 いやー、かくいう僕もビョーキで一番厳しいときには親が助けてくれなかったのでニートにはなれなかったものの、生き恥をさらして大変つらい日々を送ってました。なぜそうした状況から抜けられたのかというと、自分の性格を含めてほとんど運だと思いますが、主な原動力は「生き残れたら勝てるはず」という信仰に近い全く何の裏付けもない確信でした。

 希望格差社会とは言いますが、希望がないことが問題ならうまい具合に洗脳すれば良いんですよ。今だって代表的には持家神話に、小さいところでは消費社会に洗脳されてるんですから、現実を整える必要なんてあんまりないと思いますよ。人がその現実と幸福感と本当に向き合って生きられるのは、やはり生死の危険を垣間見た後だと思いますし、多くの人が生死の危険を垣間見るときには、多くの人が死んでしまうって事ですから、それを推奨する気にもなりませんし。

 しかし、早く勝ち組に回りたいなぁ。