本人意志

 古来から子供は自我を持たない存在としてその判断を軽んじられる傾向がある。まぁ、その考え方の是非は、どうでもいい。好みの問題もあると思うし、どちらが優れた教育かは価値軸によっても変化すると思う。

 ただ、一般的な英才教育を受けて育った僕などは、現代の英才教育として子供の意志を尊重しつつ躾をする方針を持っていたりする。人間は自分の受けた教育は何の努力をしなくても自分の子供に施すことが出来る(特に幼児教育に於いては)ので、僕は放っておくと交流分析で言う母性がほとんど存在できないほどの厳格な教育を施してしまうため、自分が甘すぎるのではないかという疑念は抱かないし、実際そうだろう。

 さて本題だが、年明けから子供が保育園に行くのを嫌がるようになった。これが普通の家庭なら泣こうがどうしようが、保育園に置いてくる日々の中で泣かなくなるだろうと考えて、無理矢理置いてくるんだろう。事実、そうした中で再び慣れる子供は多いだろうし、そのことを多くの大人は「ほら、何でもなかったじゃないか」と表現するに違いない。

 しかし、うちでは事情が違う。とにかく、躾や本格的に親や周囲が困ること以外は子供の意思を尊重するわけだから、「家にいても遊んであげられないよ」と言った上で彼が家にいることを選択するのであれば、彼の選択を尊重するという子育てになる。

 なぜ普通にやらないかというと、普通にやると行動そのものは親にとって都合良く進むかもしれないけれど、その代わりに心の中にゴミが溜まるからだ。そうしたゴミがたくさん溜まって、自分の中で嫌いな部分を持って、自分の嫌いな部分を持っている人を受け容れられなくなったりする。たとえばこの場合は、無理をして保育園に通わせられた結果、通わせられている現状を肯定せざるを得なくなり、親の希望や流れに沿わない自分はダメな自分として嫌いになり、もっと言えばそういう行動をとる他人を嫌いになったりするかもしれないわけだ。

 怖いのは、ひとたびそうした「嫌いな自分」を持ってしまうと、その後も同じ様な構図の中では自分の本当の感受性に反する「嫌いな自分の選択したい行動」を否定し続けるようになり、さらにゴミが溜まるのである。

 そして、そうしたゴミをたくさん持った人は、自分の気持ちをしっかりと感じ取ることが出来ない(行動選択に禁止がある)ので、「心ここにあらず」と言った状況と二重の感情(学校に行きたくない自分と、その自分を嫌う自分)を常に生きることになり、不安定感を周囲に与えるような人になる。まぁ、ここまでくると極端な例だけどね。ただ、僕はそういう不安定感を感じさせる人間だった。

 こういう状態は不登校などを含めて結構多い。今は文部省通達で登校刺激をしないことになっているけれども、通達以前の学校の先生などは「結果的に学校に通い社会参加することが目標」だったりするので、本人の精神発育上は全く始末に悪いわけだ。

 こうしたことは、何が本当の幸福なのか、今向き合っている状況の改善案・到達点として、何が望ましく何が望ましくないのかという価値観の問題なので一概に言えるわけではないのだけれども、僕を含めて僕の関わっている社会、家庭では、到達点に本人の本人らしい幸福を持ってこない考え方は場当たり的な浅い考え方と受け止められている。どう労働しようと、どう結婚しようと、どう子育てしようと、どうニートと呼ばれる人生を生きようと、そういう目標設定は浅い。

 今回のことで、実質的に苦労が増えているのは家内だが、「どうすればいいと思う?」と聞かれる度に、「何を望むの?(綾波?w)」という答えを返さざるを得ない。当初の返事は「子供が納得して通えること」との答えだったのだけど、それだと「じゃぁ、家が居心地悪くなれば保育園に行くよ」という本当に短絡な話になってしまう。

 昔、不登校の親によく言ったものだ。「子供を殴り続ければ、殴られないためにとりあえず学校に行くかもしれませんよ」と。戸塚ヨットスクールの対処はこの意味では間違っていなかったし、動物調教的には成功だった。彼が言っていた実績も大方正解だろう。その過程で失敗して人が死んだにすぎないわけだし。しかし、世の親は自分の都合で学校に行って欲しいことをそれほど強烈には自覚していなかったため、こういう選択肢を自分ではとれなかった。そのくせ「戸塚先生のおかげで」と言っていた親は多かったのにねw。

 その逆の戦略で、同じ目標である生命力や人間力を育てようというのがウチの子育てなわけだから、実際にはそれでは意味がないわけだが、戦略設定を確認しないと戦術なんて立つわけない。

 さて、結果的な対処だが、この教育方針に従っていると我々夫婦が認める保育園が「お母さんとの触れあいをもっと求めているみたいですよ」といっているため、一般的な対処になるが2番目を半分預けるような形にして、一番目の慣らし保育を再びやることになった。

 この方法であれば泣き叫ぶ子供を置いてくるような状況にはならないし、本人の中で満足すれば保育園に行きたくなるだろう。つまり僕が言っている「子育ての合間に仕事をしている」というのはこういうことなのだ。生活の隅々でこれだけの対処をして、現実の子供の状態に変化がないはずはない。だから、1番目はもちろん、2番目の情緒安定性も抜群であるし、この情緒安定の確保こそが、効果が薄くなっている旧来の英才教育に代わる新しい英才教育であると確信している。

 どんな職業(たとえば詐欺師になるにしても)でも、精神安定している人が最終的には勝つ。全く知らないがEQってこういうことをいうんだっけ?知識なんて、一定レベルの知能があれば修得したいときに修得できるし、一定レベルの知能はその子の有り余る好奇心を満たし続けることで形成される。親が準備しておくべきなのは、いつなにをやりたいと言い始めても現実的に不可能な選択肢が出来るだけ少ないようにしておくことぐらいだろう。金かけて本人の意志に反した旧い英才教育やってる場合じゃない。親がしてることは自然に子供もするしね。