子育てから見た護憲と改憲(ところどころ修正)

 家内が参加している子育て系MLで冗長な議論がされていたので、子育てから見てみる。

 まず、護憲にしても改憲にしても、子育ての当事者として何が目的であるかが全く見えてこない。なんだか国とか憲法とか自分から遠くの世界だけを見て論じているようにしか見えない。だから、認識論になるし、理屈先行になる。両翼と一緒。

 最初に行っておくが、僕は護憲でも改憲でもなく、平和派でオルタナティブ系だ。社会を変えるよりは自分を変える方がずっと現実的で楽だという事実に基づいている。社会を変えられると言う者は、変えてみせた現実を以て主張すべきであろう。


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 大切なのは子供と自分や大切な人の命でしょう?それを守るために、何が最短で効率が良い道なのかを議論しているわけではないんでしょうか。

 そのためにまず必要なのは現状認識で、実際に9条が存在し、抑止力として働いていたとしても、この50年間は明確に戦争に突き進んでくる50年間だったという現実です。どんなに9条の効力を高く評価する人でも、それは「一定期間猶予の抑止力」としての評価であって、9条があれば未来永劫戦争が起こらないとか、日本が平和だとかは言っていないし、そう主張したとしても誰も認めてはくれないのではないでしょうか。

 改憲やむなしの世論が形成されつつあるのは、護憲派がこの50年間ほとんどなんの実績も上げられない中で「20年後に日本が戦争をしていると思いますか?」「徴兵制が復活すると思いますか?」「改憲が成功すると思いますか?」と聞いた場合、大抵の人が「そうかもしれない」と思うだけの成果を改憲派が積み重ねてきたということです。

 この歴史を知ってか知らずか、多くの人は護憲派の言うことに現実味を感じられないわけです。社民党議席を見るまでもなくこのことは明らかで、今や頑固な護憲派は少数派です。その理由が「これまでの歴史」を下敷きにしていることは明らかで、別になんらかの情報操作が行われたわけではないです。

 また、イラク派兵反対とか、PKO反対とか言う以前に、護憲運動とは自衛隊全廃運動であるはずなのに、最近の護憲派からは自衛隊全廃というスローガンを聞いたことはありません。派兵反対なんて自衛隊全廃運動さえしていれば必要ないんです。50年間これひとつを言い続けるだけでも、かなり現実味を増したのではないでしょうか。


 次に、平和と護憲の関係。「9条が抑止力だったかもしれないが、決定的な力として改憲派を封じ込めてこられなかったし、自衛隊は存在し続けたけれど、でも9条さえあれば日本は平和だ」という嘘です。見ている限りでは、9条さえあれば、イラクで交戦しても、日本が空襲されて人がどんどん死んでいても、日本は平和だと言いかねないような勢いです。僕はこれを題目教と呼んでいます。「効果があるかどうかわからないけれども、唱えている限りは安心できる。たとえ日本人が戦争で殺し殺されたとしても」という感じなのです。

 つまり、どんなに贔屓目に見ても9条には一定期間猶予の抑止力としての効果しかない以上、平和運動と護憲運動には100%の相関が認められません。自衛隊全廃が言えない護憲運動ならなおさらです。現実的には、改憲になっても日本が平和であれば構わないわけです。子供が徴兵されなければいいわけです。日本人が戦争で人を殺さなければいいわけです。

 この視点が全く感じられないのの裏返しで、護憲派は9条さえあれば交戦やむなしと言っているように聞こえます。そうでないならばこの50年間の歴史を無視しています。自分が戦争推進派であれば、こんな楽な対立集団はありません。9条存在下で50年間もつづけてこれだけ馬鹿にされて、こけにされて、現実を戦争に近づけて来た人たちに対して、それまでもまだ「9条があれば平和が続く」などという幻想を語り続けるのでしょうか。自衛隊を全廃できなかったという一点だけをとっても、9条を正常に機能させる能力がほとんど(百歩譲った表現です)なかったのにです。

 だから僕にとっては護憲改憲の議論は馬鹿馬鹿しいことこの上ないです。
 現在の護憲運動は「=平和運動」ではあり得ませんし、何が現実的に平和を勝ち取るための手段で、方法で、作戦なのかが全く論じられないからです。題目宗教です。(それで平和を錯覚して幸福の中で戦争の嵐に巻き込まれて死んでいける人に、僕がこのような現実を突きつけることが正義だとは思いませんけどね)



 恐らく、これまでの50年間の流れから考えて、9条があってもなくても日本は戦争に邁進し続け、それなりに近い将来、戦争に突入するでしょう。空襲までの状況ではないにせよ、自衛隊が海外で交戦することは多くの日本人の想定の範囲内だと思います。導いて、徴兵も行われれるでしょう。子供を育てる上での最大の恐怖は、この徴兵です(個人的には、国土喪失の危険がある原発もこれに次ぐ危険と感じています)。

 この流れを断ち切るのはPDCAサイクルを持たない護憲運動(多くの市民運動も同じ)の抜本的改革ですが、一通りの危機を感じながらも、これまでの護憲運動に改革が必要だと感じている人はほとんどいないことから、これは無理だと思います。多くの市民運動家と行動と共にしての実感です。PDCAサイクルとは、プラン、ドゥ、チェック、アクションというサイクルであり、役に立ったことがないデモを50年間もやり続けることの対極に位置します。これまでの護憲運動の失敗を前提にすれば、これまでと同じ事をやるのは戦争に賛成しているのと同じであることを知ることです。護憲と平和に強い相関がないことを50年間の護憲派完敗の歴史から感じることも、PDCAサイクルになります。


 さて、具体的手段として、この状況下で子供を救うのは「棄国」でしかないでしょう。国は棄民も棄軍もしたことがあるのに、民衆は棄国をしたことがないのです。現在の日本は事実上の植民地であるため、宗主国のために組織された植民地の人によって成り立つ軍隊が植民地のために働くことなどあり得ないという現実もあることですし、そういう現実を変えることが出来ないなら、自分の頭の中を変化させて子供を救うしかないのです。学校を変えるのはPTAでも先生でもなく、学校に誰も行かなくなったときです。水を変えるのは、みんなが水道水を飲まなくなったときです。農業を変えるのは化学肥料で作られた農作物をみんなが食べなくなったときです。

 これだけのものが天秤にかかるとすれば「やはり日本民族として国土と共に死んでいって欲しい」という平和派がいるのは知っていますが、平和派とは平和と命のためであればあらゆる苦難と対価を支払ってでもそれを追求する人たちのことですから。

 結果的には、そうやって日本から逃げ出した人が、日本文化と文明を再生するのだと僕は考えています。海外の日系人のほうが今の植民地化されている日本に住む日本人よりも正確な日本語を使っています。これだけの歴史と現実が揃っていて、それでも棄国を考えずに日本に子供と共に住み続けるのは、結果的に戦争に賛成しているのと同じ事です。現在の平和派にこれだけの危機感と現実対応能力がないのは悲しいことですが、子育てをする人の多くにこのレベルの危機感がないのはやはりある種のボケ(平和ボケでも、戦争ボケでも)なのではないかと思います。

 護憲とか改憲とかいった表面的な手続きにこだわるあまり、両翼が「命を大切にする」という大目的のために同舟できないのは悲しいことで(右翼=戦争推進派ではないので)、それは日本が普通の国ではないということだと思いますが、それならば個人レベルで「命を大切にする」を追求するしかありませんし、やはりそれが可能なのは少なくとも日本国内ではないのです。