維新系右翼の限界
http://nishio.main.jp/blog/の6月27日から以前の数日を読んで。
やっぱり維新系右翼って、なんだか西洋風近代国家へのあこがれとか、中央集権を良しとするところとか、平等が素晴らしいと考えているところとか、全然、右翼らしく見えないんだよねぇ。
本来の日本文化では、その揺らぎの大きさこそが素晴らしいわけだし、そこに中央集権がなじむはずはないし、談合なんてバリバリの日本的意志決定機構でしょ。「和を以て尊しと為す」なんて、多数決原理によって少数派の意見は選択されません、なんてデジタルなのじゃなくて、今西先生系の棲み分けみたいな曖昧な感じで、全会一致をやんわりと勧めてるわけでしょ。
どこをどうすれば、日本的という概念と、民主主義や中央集権がなじむのか、まるで見当がつかない。なんだか目指しているモノを大きく勘違いした結果、木に竹を接いで住民監視のない公権力が存在したり、談合が存在したり、帝国憲法が民主主義憲法だったりというトンデモナイ間違いをしてるような気がする。
もっと言えば、そうした間違いが、現状の民主主義の歪みを歪んだままで良いと言いきる状況につながっている気がする。中国を批判する前に、何が日本的なのか、どんな国家を目指すのか、もう少し戦略部分を見つめ直す必要があるんじゃないかな。
ライブドア騒動の時なんかも、法治思想そのものを否定してる論調が多くあったのに、一方で人治的な現状の中国を否定するのは、全く以てよくワカラン。
裏を返せば、ここいらが理論闘争が弱い右翼の匙加減の大前提なんだろうか。今となっては左翼だって議論に長けているわけでもないのだけれど・・・。
一方で、
http://www.yorozubp.com/0506/050626.htm
という素晴らしいページにも出会ったので、載せておく。やはり、検証はこのように行われなければならないだろう。
同じ理屈で、
http://rerundata.hypermart.net/ura/hexagon/floors/floorA2F.html
に書いてある内容の真偽がワカラン、検証できんと言いながら幾星霜。内容的には無茶苦茶面白いんだけれど。