いろんな人が訪れぬる

 誰か知らせたでしょ。別に問題ないけどね。カウンタに普段見慣れないドメインがあったので「あー、昨日書いたもんなぁ」と思った。

 そのほか、最近相場に参加し始めたというブログの内容を見て、直メールで相場について勝手にお節介に少し情報をお知らせしたら、意外にもしっかり感謝されてびっくり。「情報の価値」についてもう少ししっかり考えてみなければならないような気がした。なにが情報の価値なんだろうか。

 たとえば、突然、自称相場師から送られてきたメールを見て、そのメールの内容に「何か有益なものがありそう」と感じてもらえる。しかし、恐らく、そう感じてもらえないメールだって(僕が書いたのではないにせよ)あるはずだ。では、どこが違うんだろう。

 昔、山口実師匠にも言われたことがあったんだよね。「同じ情報でも、誰が言ったかによって、価値が変化するんだから、『自分が発信しているどこにでもある情報』の発信料をもらうことは悪いことじゃない」って。これは、「本などであれば同じものが他でも買えるのに、自分が仲介することで途中手数料が生じる商売の仕方というのは、罪悪感を感じる」といったときの彼の答え。理屈はわかったけれど、まぁ、そのころは良くわかってなかったいね。

 さて、まぁ、今日のケースは違うんだけど、似たケースを探してくると、自己啓発セミナーの勧誘で「ほかのソースからのセミナー情報はないのだから、君の話を聞いた人が怪しいと感じるとすれば、それは君の言い方が怪しいからだ」という言説にも出会ったことがある。これに関する正解は「普段の信頼感がないから、何を話しても信頼感がないのだ」ということになる。

 さらに引っ張ると、ファンドを設定すると言っただけで、どんどん人が人を呼んでくるような状況って、やっぱりこれまでの僕にはなかったと思う。集まってくる人というのがあまり投資に対して用心深くない(ほかでは大層やられてる)人たちなのは、お約束の範囲かもしれないけれど、気分悪くないよね。

 僕がニートだった頃と今と、僕の本質がそれほど変わるわけでもない。労働時間が伸びていない分、生活の質だって、そんなに大きくは変化していないし、生活ストレスなどは、ぐっと軽くなってる。やの君などは「実績がある」と言うが、実績なしで評価される人もたくさんいる。確かに本を好きに買えるようになったことで、また、戦略会計士の刺激を受けたことで、知識そのものは増えた。

 でも、お金を稼いでいるかどうかというだけの観点を外れても、僕の発信する情報の信頼性に変化が出ているようだ。それはなぜか。どうしても滲み出てしまうものなのだろうか。だとすれば、フリーターやニートの社会的信頼感、安定感の不足というのは(不足しているとすれば)、職業そのものから醸し出されるなにかではなく、もっと別のものなのかもしれない。

 とここまで書いて「大東京びんぼー生活マニュアル(本そのものは存在するが、僕が言っているものと一致しているかどうかは100%の確信もてず)」の主人公の彼は、そうした不安定感を感じさせないキャラクターだったことを思い出す。おじゃまんが山田君の三人組のようでは、ほのぼのしないし、読んでいる方にも安定感を欠くしね。

 だらだらと書いたが、とりあえず嬉しかったからに他ならない。