格差はまだ進みきっていない

http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_06052211.cfm?ref=r033

メージャー氏が引き継いだ80年代のサッチャリズムは、市場原理主義を極端に重視した結果、所得格差が拡大し、教育が荒廃した。97年に就任した労働党のブレア現首相は、教育改革を最大の課題にすえた。党の従来の平等路線と「cワード」のバランスの取り方が、ポイントだった。

 これを小泉路線と同等に扱うのは無理があるね。だって、格差の程度とその受け入れレベルにはるかな差があるもん。日本人が明確な格差の世代間伝達を認識するのは「低所得のために多くの人が大学にいけなくなったとき」だろう。実際には、関東の私学を卒業するのには1000万円ぐらいのお金がかかるが、就職や所得にどの程度影響があるのか計算できずに進学させる余裕があるようにしか見えない上、そうした大学への進学そのものが「もったいない」とか「ぜいたく」といった切実な感覚をまだ聞かない。そもそも生活費の安い相当の田舎には国公立の大学が多数存在しているのである。

 もし、金銭上の問題ではなく大学進学が必要とされると貧困層のおやが考えるのならば、それは親の教育だけで1000万円の生涯所得が節約されるということであるし、節約できるお金があるということになる。逆に本当に大学進学が格差の伝承に一役買っているのであれば、高卒と大卒に大きな較差が生じてもいいはずだ。そもそも勤務者にならなければ学歴はほとんど問題にならないわけだし。イギリスのような格差であればまだしも、この程度の格差が社会問題になるとしたら、それは経済問題ではなく知性の問題である。

 つまり、いくら格差が拡大したといっても、まだまだその程度ってことだ。ゆり戻しまでには相当時間がかかるし、そもそも「結果の平等」と「機会均等」のどちらが日本人の使う語義での「平等」に属するのかがはっきりするほどでもない。昔からなぞなんだが、そんなに「結果の平等が好き」ならなんで共産党を支持しないのだろう。あるいは共産党系の思想を持った政党が支持されないのだろう。その制度に実効性があるかどうかは別にしてね。好みの問題ってあるでしょ。もしかして民主主義の限界?

 この意味では、まだ読み終わっていないけれど「ハッカーと画家」がいい本であるように思う。
 引用ではないが「富の総量には限界がない。富は作り出すことが出来る。たとえば本を修繕するように。鉛筆を削るように。」といったようなことが書かれている。分配法則の充実が公平な社会を生み出すわけじゃないよ。

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち