いじめ関連で検索して

 http://d.hatena.ne.jp/tomonya/20061109
 に飛んでくる人がそれなりにいるねぇ。

 いろいろ想像してみたが、子供が虐められていて戦えないと知れば、そのいじめっ子が遊んでいる公園などまで行って、自分の子供に金属バットを持たせて「ボコボコに殴ってこい(頭は殴るなよ。骨折までさせる必要はない)。不意打ちでも良い」と言って殴らせるぐらいのことはするんだろうねぇ。言い逃れの出来ない本当の障害教唆だ。しかし、この経験で子供の一生が変化すると思えば俺はやるね。
 世界中のイニシエーションには、実際に何らかの残虐行為を行うものが非常に多いが、あれはやっぱり普通に生きているとそういう闘争心をもてないからだよね。それを持っていた時点で、ボクはかなり闘争的な人間なんだろう。
 あくまでも自分の経験に基づけば、いじめっ子というのはあれでかなり聡いし脆いので、命の危険にさらされる相手を虐めたりはしません。そういう人生に対する迫力と、ただではすましてもらえなさそうな怖さが感じられれば、一生、虐められることはないでしょう。つまりそういう闘争力を持たせられないとすれば、それは親がそれを持っていない(歴史相手にせよ、人間相手にせよ親自身が被害者になる可能性をかなり持っている)ということなのではないでせうか。
 以前、子供の同伴保育に行っていた頃、長男をときどき虐める子供がいると聞いていて、実際に現場を目撃できたら、僕からは暴力を振るえないので動物的闘争心をむき出しにした大声で威嚇テストをしてやろう(どれぐらい威嚇できるかを楽しみにしていた。威嚇しながら駆け込んで追いかけていって、その子自身が高いところから自分で飛び降りてしまうぐらいの追い込み能力を自分に期待していた)と思っていたが、僕と面識がなかった(僕もその子を知らなかった)その子は、普通にほほえんで座っている僕を一目見てその場で数十秒間凍り付いてました。また、その後、僕の息子が虐められることは一度もありませんでした。
 そういうもんです。いじめっ子の動物的直感をなめてはいけない。「ヘタをすれば殺されるかも」「この人は楽しみながら、なんの躊躇もなく僕を害す」とさえ感じさせれば、彼らはウサギのように弱い生き物になります。こちらに正義と正当防衛(過剰防衛?)の口実がある分、闘争とその結果を嫌わない僕らにとって、彼らはもっとも狩られやすいかわいそうな獲物にすぎない。
 そういう威嚇力をもてれば、人々に倦厭されることはあっても、虐められることはないです。どっちもとっちといえば、その程度のもんなんだけど・・・。

 そういえば小学生の頃の僕は「正当防衛」という言葉が好きだったが、その後「過剰防衛の基準」に強い興味を持ったものでした・・・。さすがに小学生にとって暴力程度上の定義がはっきりしない(本当ははっきりしているのだろうけれど、大人は誰も教えてくれなかったし、辞書にも基準までは載っていなかった)概念は非常に難しく、このことが命を奪うまでの攻撃を何度も思いとどまらせたことは間違いないです。そうでなければ、誰でも彼でも2階や3階から突き落としまくって、いわゆる「仕事人の働いている学校」になっていたのか?そうは思いたくないなぁ。まぁ、いろんな安全弁が世の中にはあってことです。優等生にも危ない奴はたくさんいるんですぜ。