成長力など

 特に男は40歳を超えると成長力が期待できないとされる。
 成長力の元になる成長欲求は、「状況の把握」「蓄積された知識」「その双方の突き合わせによる考察」の三要素によって、なされるのではないかと思う。歳とると如実に衰えるのは一番目。二番目は年齢と共に強化され、三番目はイマイチわからない。先日評判になったように、状況の把握がずれている原因如何によって考察もずれる可能性を秘めているから。
 先日も書いたように、「路傍の浮浪者の言葉ですら状況の把握に利用できる」のがひとつの目標であるように思う。
 僕が戦略会計士などに言葉をかけるのが嫌なのは、もちろん非情なせいもあるのだけれど、僕の言葉がそんなに安くないという自信があるからだ。何度も言うが、僕が人にものを言ってもらいやすいのは状況の把握に関して争わないから。人は状況の把握ですれ違う人に言葉などかけたりはしない。しかしこれは、唯々諾々と人の言うことを聞くと言うことではなく、別の価値観から見た状況をその人の目と言葉で把握することに他ならない。その都度、その人の視点でものを見る訓練は、歳とってからの状況把握能力の低下を防ぐと思う。
 で、彼らが普段は触れ合わない価値観から僕がものを見る能力があるのは明らかなので、僕の言葉に自信が出てくる。それが聞き入れられそうにないと、面白くないので言葉をかけなくなる。人として普通じゃね?
 なんにせよ、「状況の把握」は年齢と共に確実に衰えるが、「状況の変化」が速くなることがあっても遅くなることはほとんどないので、本質的には成長の原資には事欠かないという現実がある。同じ業界、環境に生きていようとも、年齢と共に成長力が衰えているとすれば、それはひとえに「状況の把握」が悪くなってきたからであり、それ以外ではあるまい。
 同様に、知識に依存するのは状況に接する能力の衰えであろう。逆に若い頃の知識依存はそれほどの重病ではないのかも知れないと最近は思う。あー、重病の人もいたな。
 思ったよりもまとまらない文章になったが、何度考え直してみても、聞いてもらえそうにない状況下で言葉をかけられるほど僕の言葉は安くないよと思うね。何もない僕、どうしょうもない僕、病気の僕とつきあってくれる人がこんなにたくさんいるのに、なんで実績を伴った僕の言葉しか聞こうとしない人に僕の言葉をかける必要があるのだろうか。しかし、30歳も過ぎると別の価値観からのものの見方って、ほとんど見聞できなくなるんだよねぇ。だから僕の言葉は貴重なのに、ヤレヤレであります。

 とか言いながら「僕は非情じゃない」と思いたいのでまだ悩んでおります。うへー。弱いな。しかし、テクニックとして考えても、彼らが知らない世界を理解させるのは無理だよねぇ。あの手の状況認識をずらす能力がある人は自分(の価値観)を否定する意見を聞かないし。カーネギーだったっけ?正しいよなぁ。
 会計士もあれだけ無自覚に暴走した(指摘されても謝罪しきれなかった。本人もどうしてそんなことをしたのかわからないと言っていた)ところを見ると、今頃なにやっててもおかしくないな。そう考えると彼に近寄らないのは防衛の意味合いもあるのか。おねーさまも「つきあうはずもないと思いますが」って言ってたんだよねぇ。無自覚に病気になる彼の病気と、病識のある僕の病気では重さが全然違うんだけどなぁ。誰かが教えてあげるべきなんだけどなぁ。でもそれは僕じゃないよねぇ。
 これから人を育てるとか言ってたなぁ。ある意味、絶対に失敗しないだろうなぁ。だって、悪いのは相手にしかならないからなぁ。教育って楽だ。つまり、失敗しないって最強じゃね?状況認識能力が下がると、絶対に失敗しない人生になるからなぁ。それはつまり、ビョーキなんだが・・・。
 いつ気がつくんだろう。彼の状況認識能力が指摘を伴って否定される可能性は限りなく低いからね。だって、僕と同じでみんなめんどくさいし。結果的に物事がうまく回らなくなったときに、状況認識の歪曲で事態が包含できなくなった場合だな。でも歳とってから失敗の原因を世の中のせいにする人って多いよなぁ。あー、暗い話だ。
 サリエリじゃないが、許される凡人と、許されざる凡人ってところなのか。
 この問題、まだ結論が出ないな。