大変重要なことに気づいたのだが

 まとめ切れていない。
 そもそも「言論がうまい奴と行動がうまい奴がいるのだから、僕は言論側に徹して、『思想的指導者』ぐらいになろうかな」という話だったのだが、それにしても腰が引けていたのではダメだという話に納得してしまった。
 吉田松陰にせよ、孫文にせよ、初期の大作にせよ、おそらく命を懸けて言論を発していたのであって「家族が大事だから」などという理由で、命を大切にしたのでは、やっぱりあんまり人は巻き込めないだろうと。まぁ、巻き込もうとすらしていなかった(それでも巻き込める人はいるのでその人たちだけでやろうと)のだけれど、やっぱりそれでは命を懸けようとする人は出てこないであろうと。こういう単純化された話ではなかったのだが、今、再考すると、こういう言葉にしかならない。
 そもそも、なぜ行動しないのかというと、実現できることにしか手を着けたくないからなのだ。対米独立戦争は今、下手に始めても確実に失敗するからなのだ。
 でも、その本質に日曜日になって行き当たり、その心は「転向者である」という話に行き着いてしまった。なんと、古くて新しい話だったのだ。革命家は、成功するか失敗するかなんて気にしてないもんね。それは完成図があまりはっきりしていない芸術作品への挑戦のようなものなので。
 とすると、僕はそうした活動を完成図のわからない「芸術」から、天秤を明確に意識しながら成功確率の高い方に進むという「手続き」に合理的に昇華させたつもりでいて、実は、非常に空疎なものになっていたという話だったのだった。
 同時に、分析で明らかになりつつある「自分自身が活動したときの結果責任のとらえかた(重さ)」についても、話は絡み、その結果気づいたことは過去数年来の謎の解明であった。
 しかし、体が動けば良いというだけの話でしかない、市議会議員ぐらいを僕は尊敬しないけどね。それは「野球で全国500位の個人は野球で食えないけれど、勉強で全国500位の個人は勉強で食える」というだけの話にしか思えない。
 僕はたまたま体を動かさない方向性の能力(評価されづらい能力)に長けているだけというはなし。そもそも、器との兼ね合いもある。頭でっかちもここまで来ればそれなりなんでないかと思うのだ。
 第一、名誉欲であれ、権力欲であれ、流れ次第であれ、ただ体が動いていて、議論すら満足に出来ない人間と一緒くたに評価される土俵に立つのは、プライドがゆるさん。勝算もなく体が動いた奴が評価されるのなら、別に僕は底に参加する意義を感じない。頭に来る。