中等までの公教育

 22日のコメントを書いていて、中朝までの公教育が「制限された知識を与えることは出来ても思考能力が低い人間を量産する手助けをしている」のは悲しいことだと思った。「教養がないのはみじめ」と諭吉も書いているが、弱者がどれほど無教養故に弱者たり得るのかを考えれば、強者が実効支配する世を維持するために必要とされているのが公教育なのだろう。
 真実に至る門は狭く細い。制限されない知識と知性に至るのは、ほんのごくわずかなのである。
 諭吉がそれを知っていて諭吉訓を書いたのは間違いない。彼の青年期の、単なる博覧強記から知性に至るまでの道筋(主には適塾までであろう)で、タダの博覧強記で終わる人を多数見てきたに違いない。同時に、書籍が貴重な時代、思考力はあっても知識が詰め込めない人もまた、多かったに違いない。翻れば、記憶媒体が豊富な現代は僕のように記憶力が低く思考に偏向しているほうが知性には至りやすいだろう。諭吉訓だって、覚えてはいないもんね。