ワークとジョブ

 http://d.hatena.ne.jp/tomonya/20080222#c
のコメントに対する答えの続き。

 ロバートキヨサキだったっけかな。ワークというのはライフワークにつながる概念で、ここで強調したい部分は「お金がもらえようともらえまいとやりたいこと。やっていること。つづけていくこと」みたいなイメージ。諭吉訓(彼が作ったものではないらしいね)の

世の中で一番楽しく立派なことは
一生涯を貫く仕事を持つことです

世の中で一番寂しいことは
仕事のないことです

で言われている仕事とは、このワークのほう。マザーテレサの活動や、冒険家が「そこに山があるから登る」というような、打算の働かない純粋な作業、突き動かされる行為のようなことを言う。

 対して、ジョブというのは「お金のためにやる作業」という感じ。定年があるような仕事(ジョブ)はそもそも「一生涯を貫く仕事」ではないわけだし。

 前者はお金がもらえなくても魂の叫びに従って行う作業ぐらいの感じだから、はっきり尊いし、これを持てないことが持てることに比べて寂しいというのもうなづける。後者が卑しいのは「お金のための労働」という部分であり、これはお金の奴隷になっているから。

 ご反発の精神性との絡みで言えば「家族を養うために奴隷に身を堕とす」という部分が称賛に値するのであって、奴隷労働が称賛に値するわけではないことに注意。もう少しわかりやすく言うと

・自分で欲しいブランド品を買うために売春婦をやる
・本当はやりたくないけれど他に出来ることもないし、自分が生きていくために売春婦をやる
・子供三人を女手一人で育てるために売春婦をやる
というふうに、売春婦自身は体を売る卑しい職業とされているけれど(現在の日本には厳密にはこの職業がないので例に使った)、その理由によってその人への称賛性が変化するという意味。

 で、僕が「成金ではなく金持ちの考え方」と表現した「お金のために働く卑しい姿を子供に見せたくない」というのは、この意味の奴隷労働のことをいっているわけ。その背後にある精神性とは全く別。それが美しいと称賛されるべきなのは労働そのものによってではないから、そうした補償的な尊敬を子供に強いたくないというのは、あまりおかしくないセンスなんじゃない?子供が親の姿を見て真似て育つとすれば尚更、子供にはワークのみで人生を過ごして欲しいと願う親の気持ちの現れなわけさ。

 で、多くの人は「そんなこといってもワークだけでお金が稼げる人は少ないし、ジョブであってもお金を得なければ生きていけない」っていうけれど、僕に言わせればそれは「お金がない経験をしたことがない人が、恐怖感だけでそう発言している」のがほとんどなわけ。

 成金という品性は「お金に過剰に縛られる考え方や行動」のことをいうので、「実際にお金がない状況を経験したことがない人が、その恐怖に突き動かされて奴隷的労働をしている」とすれば、それはやはり成金的行動と表現するしかない。恐怖に行動が過剰に制限されているわけだから。そのうえ、その奴隷的状況で「家を買う、車を買う」となると「いったい何のために奴隷やってるんですか?生活のため、家族のために奴隷をやってるんじゃなかったんですか?」という話になってしまう。

 話を戻して、「お金のために働く卑しい姿を子供に見せたくない」という世界的には結構あり得る感覚は、これら本質的な「ワークとジョブ」とか、「人のために積極的に奴隷に身をやつす姿の精神性は美しい」というのをすでに内包しているセンスであって、あんまりまきママが反発を感じるべきものではないと思うよ。