あるMLに最近投稿した文章

 団体の活動が岐路に立っているのが現状。改めて僕の市民運動に関する考え方を表現してみた。

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以下はあくまでも日本の市民運動の多数派に対する個人的見解です。
しかし、5年以上前から一貫した見解です。ぶれたことはありません。

全てではないですが、おおむねこんな感じかなという感じですね。

◎ひとつめ
PDCAサイクルがない

 たとえばイラク派兵問題でも、改憲問題にしても、失敗したことは認識されているのに、今後の活動でこれまでとやり方を変えなければならないという危機感がない。また、建設的に考えれば、市民運動市民運動のままで我々のスローガンを達成する可能性はないでしょう。

 ですから、これからの市民運動は国民運動を目指さなければなりませんが、世間から見ればオタクっぽい一部の人が必死で動いているだけで、国民の3割以上がデモに参加したような60年安保のようなものを目指しているようには見えません。しかも、60年安保ですら、成果を出せなかったのです。

 つまり、僕の言っている国民運動というのは、国民の50%以上が参加するようなデモや、政権獲得のどちらかです。そうでなければ、なんの成果も出せないでしょう。

 何度も言いますが、成果を出せないことを悪いと言っているわけではないです。成果を出せないであろうことを認識せずに、多数の人々の労力と気持ちを浪費していることは罪深いと言っているのです。


◎ふたつめ
誰と戦っているのかの戦略論が存在しない

 今日の日本の諸問題の原因のほとんどすべては、アメリカによる被占領状況に帰着されます。

 つまり、原発も、イラク派兵も、戦おうとするのであれば、それはアメリカという宗主国との戦いに他なりません。そうした大局観を抜きにして、しかも国民の50%以上の賛同を得ようともしていない状況では、浜岡原発を止めるとか、六ヶ所を止めるとかいうのは、虚構でしかないです。

 もし虚構でないというのなら、過去の活動目標が虚構に終わったことを総括し、今回が虚構でないことを強弁しなければなりません。

 自分は過去の失敗が総括さえされていれば、どのみち今度も失敗するだろうと思ったとしても賛同はできますが、総括されていないまま同じ様な活動方針で進んでいる以上、善意ある人々を繰り返しダマし続ける商売と同じ様な印象しか持てません。

◎みっつめ
現状の文明が、すでに持続可能な状況なのか、持続は不可能な状況なのか、全く話し合われていないのに、無批判に持続可能であるという前提に立っている

 活動そのものが成就する可能性がなく、この文明が持続不可能であったとしても、活動そのものの意味は十分残るが、そうした不毛な状況のなかで「今我々に何が出来るか」が話し合われるのではなく、あくまでも「かならず結果が出せるもの」として物事が進められている。

 本質的な負けを認めずに物事を進めているのは、自分から見ると太平洋戦争の参謀本部と全く同じで、結果的に多大な労力の浪費をしている。その浪費を強いている人々が日本に存在する最高に良質な善意の保有者であるのがまた許しにくい。

 「戦争には絶対に勝つ」という嘘を信じ込ませて国民の労力のほとんどすべてを投入させたがごとく、「持続可能な社会は形成可能である」という嘘を信じ込ませて総括もされず成就もしない活動に善意を浪費しているいるとすれば、その罪はかなり重いと言わざるを得ません。



−−これは戦略レベルだけの問題ではないです。

 浜岡原発を止めることが出来るのなら、それで良いのですが、止めることが出来ないのなら、疎開活動をするほうが建設的です。どちらにしろこれは人を脅かす活動に成らざるを得ませんが、原発停止はアメリカという巨悪との戦いであるのにくらべて、疎開は個々人の判断で可能ですから、おそらく実現可能性が高いわけです。

 食糧問題も同じです。自給率が上がるような施策を許可した役人は絶対に出世できません。それが不可能であるのなら、オルタナティブに海外疎開をするのが明らかに建設的なわけです。総人口を半分に減らせれば、飢え死にを防げる可能性がかなり高くなると思います。

 結果的に実現できないスローガンに多くの人の善意を巻き込むことの罪悪は相当に重いと思います。しかもこの罪は、この10年ですらなんども繰り返されていることです。イラク派兵しかりです。

 そうした総括をすることなしに、いくら「人の命を大切にする活動」と言われても、自分には全く現実味がないばかりでなく、猛々しいです。


◎よっつめ
そもそも社会を変えるのと、個人の行動を変化させるのとは、後者のほうが遙かに楽です。なぜ、難しい社会変革ばかりを、これほど失敗し続けながら目指すのでしょうか。

 東海地方からの疎開や、海外への疎開を推奨しないのでしょうか。原発停止が成就しなかったとき、疎開を推進する活動方針を選択していればより多くの人の命が救えたという判断や心配はないのでしょうか。

こうした目標成就の可能性と、その正否の結果が過酷に吟味されたあげくに、最善の選択を行うという過程が存在しないのも自分には賛同しづらい理由です。持続可能社会観の非吟味も同列に感じられます。

これが日本の市民運動の多数派に対する自分のだいたいの見解です。


◎そのほか
 いつも言っていることですが、自分は80年代後半にディッピングポイントを超えて、今の人類文明は終わりに向かって突き進みつつあると思っています。

 そうした絶望的状態のなかで、この黄昏の時代にどれだけの人を幸せに出来るのかという部分に自分の活動の主眼があります。だからこそ、成就しない活動目標にこれまで成就してこなかった方法で多くの人を駆り立て、結果的に絶望感に苛むのは許し難いのです。