それは刹那的に過ぎるのではないだろうか

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 国という大きな器で考えればそうなるのかもしれない。しかし、政治の目的として、「最大多数の最大幸福」という戦略目的が正しいとしたとき、「何を棄てて何を得るのか」のバーター論と現実論の組み合わせとして、

 「日本という国はこのまま行くところまで行くしかない国だし、それまではこの路線で行くとして、行き着くまでの期間に関しては世界標準と言われている的な道筋(開放)を選択するのではなく、統制的な道で行くんだ」ということですかい?それが保守思想であり、政治の役割なのであれば、あまりにも無責任な話だろう。
 
 せめて、行くところまでは行くとして、そのときにどんな形があり得るのか、どういう形が縮小していく世界経済の中で日本人の最大多数の最大幸福につながるのか(地域や国としての競争力を最大限にしうるのか)は、もっと真面目に語られるべきではないかと、いっかな貴族主義の僕でも考えるわけですよ。

 競争に勝った暁に自由主義者の幸福も最大化するわけです。

 そうした国のデザインをそっちのけにして、現状を最大限追認しつつ、もし開放路線に切り替えたときに日本がどれほど遅れていて競争力を失っているかの考察も抜きにして、現状に対する結論が「行くところまで行くしかない」というのは、あまりにも論者として無責任ではなかろうか。

 いずれ開放させられるのだとして、そのときのために最大限の競争力を身につけておくのが筋ってもんでしょう。その意味では幕末の開国と攘夷の論争の時期に、現実論として軍備を整えるがごとき対応を今の日本は必要としているわけですよ。

 んで、土俵としてアメリカが形成してしまった特許という部分があるのだから、エコというキーワードのもと、国策としての技術開発に全力で取り組みつつ、飢え死にしそうな大多数と、飢え死にから逃れるためだけに働いている大多数をとりあえず飢え死にを心配しなくてもすむ次元まで整えて、大胆に教育課程を組み直して、徹底的に思考力を優先した教育体系に組み直すと。中学卒業までは作文と工作、高校以降は英語、数学を基調として、本来の日本人のオタク系能力を生かす方向で。もちろん、ILOのいう最大効率の投資である女性教育&社会参加促進にも力を注ぐわけですよ。もう日本社会なんて崩壊した後ですから、それで家族制度が崩壊するなんてたわごとは聞きません。

 こうした施策が満ちるまでの対応策としての、明らかな統制的経済政策であれば、多くの人が納得できるんじゃない?

 しかし、こういう強い政策、強い改革を押し進める邪魔は、やはり宗主国なんですけどね・・・。
 裏返ってそういう現実論なのかな。