母親と

 上とは別の話だけれども、最後に実家に行ったときの会話で学んだポイントは非常に重要であった。
・あちらからはこちらが非常識であるが、こちらから見るとあちらが非常識に見えることは多々ある。しかしそれを僕らが押しつけることはないし、説明しても耳を傾けることもない
・今後、あちらの常識世界に僕が参加する(できる)可能性はもうない。僕は僕なりに自分が家庭教育で得た常識観を修正することに腐心してきたし、それは実を結んできた。その中には捨てる必要がなかったものも多くあるかもしれないが、とりあえず自分は今の常識世界になんとか引っかかって参加しつつある
・先方の常識世界に参加する可能性があったとしても、それをこれから学ぶのは不可能。つまり、先方の常識世界に参加する人には今後確実に駄目な奴としての烙印を押されるのは仕方がない
・しかし、先方が気持ちいい思いをするのであれば、わかる範囲で先方の常識に従うのはやぶさかではない
・ただ、こちらが常識地雷を踏む前にそれを察知する方法はほとんどない
・なので、事後に注意されたのであれば従うのだが、その時点ではすでに気分を害していることが普通である
・しばしばその言動は教育的視点に立って行われるが、その善意が実を結ぶことはない。上記のように「先方の常識世界に参加する人には今後確実に駄目な奴としての烙印を押されるのは仕方がない」とまで覚悟をしている現状では耳障りが悪い。聞き流すのは簡単だが、改善の可能性がないだけに申し訳ない。
「今後は、毎回、これらのことを説明しなおす努力を怠らないぞ〜」という決意を改めて行った。

 このような会話は感情の発露を伴うことが多いので、原理原則として、これを文書にして提出しようと思う。