で、僕は快楽主義者なので

 価値判断する人を認めうるが、僕はあまり価値判断に重きを置いていない。何度も書いているが「世の中を変えるよりは自分が変わる方が簡単」だから。

 それに世の中を変えようとする動きは結果的にはテロにしかなりえないし、それを是と出来る人は多くないでしょ。戦争なのに戦争じゃないと思いたいなんて、それこそが洗脳だ。しかも搾取する側が洗脳している。これが戦争であり、同時に破壊を目指すべきであり、その破壊の中には奴隷が享受している多くの利益をも一度は手放すことにしかならないという覚悟が出来ない以上、所詮は貴族から見て怖くない集団に過ぎない。いくら享受しているものが違うとはいえ、結局は恩恵にあずかりまくっている。

 たとえばこうだ。「貴族を引きずり落としたいが、無法地帯に住むのは嫌だ」と。貴族が貴族のために作った警察組織に命を守られていながら、貴族を否定するなんて出来るわけないよ。貴族つくった飛行機、貴族が作った自動車文化、貴族が作った交通機関、貴族が作った電子機器、貴族が作ったマンション、貴族作った街、貴族が作った秩序、貴族が作った食料、貴族が作った流通機構、貴族が作った食料・・・。君の目に触れるすべては貴族が形成してきた文明によって形作られている。

 否定するのは自由だが、そのすべてを失って石器時代(欧州では少なくともローマ帝国以前)に戻る覚悟なしには、なんの闘争にもなっていないよ。それだけの闘争をしないのであれば、貴族が作った枠組みの中で良い思いをするために時間と労力を費やしてはどうか。

 ただ、世の中の動きを観察するとき、「貴族がずっと貴族であり続けるために貴族が行う様々な動作」がなんであるかを考えると、未来はわかりやすい。今なら、ドルをどう防衛するかとかね。