ほりえもん

 先週とはうってかわって、サンプロでのインタビューについてそこいら中で触れられている。思えば、希望格差社会も似たようなブーム性を感じた。この感覚はパソ通をやっていた頃の同じ文化、同じ話題を共有し、その似たような話題の中でコメントしあっていた頃に似ている。

 彼には僕ほどの挫折経験がないのだろう、物事をすすめるとき、言及するときに怖さを感じない。恐らく徹底的に逆風になったときの忍耐力も小さいのかもしれない。もうひとつは理念かな。この意味、孫は理念あるし戦略観もあるけれど、彼にはそれを感じない。

 つまり、フローの規模を考えても、目指しさえするのなら長期的に同程度のところに立てない感じはしないが、目指すかどうかという選択を迫られている感じはする。ある種の革命を目指し続けるのなら啓蒙は大切だし、本当の啓蒙をあきらめて影響力のための権威性を持つか誰かに持たせるかというのもあるんだろう。池田大作よろしく、大派閥を作って政治家を多数送り込むというのもひとつの手段なんだと思う。

 ただ、そういう方向性ではなく、世間に背を向けて、ただ総和快楽主義の道を追求し続けていくのかどうか、あるいは総和快楽主義の追求だったとしても、僕の総和快楽主義の道の中で啓蒙や世直しがどんな天秤の上に載っているのかの見極めをこれからの数年間でやっていかなければならない。

 金を持ってる人も、金を稼げる人も、金で人を動かす人も、たくさんいるが、同じ影響力を持ったとき、ほかのひとが滅多に思いつかないことや、滅多にやろうと思わないことを思いつくのには、やはりスピリチュアル的に何かの意味があると考えるのも自然であるかに見える。

 天命などという便利な概念を使うのなら、気持ちよく生きていさえすれば、辿り着くべきところに辿り着くとも言えるんだが、あらためて堀江君を見ていると、メジャーになった自分とそう遠くない程度には嫌われるだろう(同じではなかろうけれど)という恐怖を感じ、暗澹たる気分になるのは事実だ。

 行ったり来たりの振り子のような煮え切らない文章になりそうなのでこのへんで。