太公望伝

 再読。諸星大二郎。漫画。70歳で彼が世に出た話を読んで、不遇時代の僕がどれほど自分を重ね合わせたかしれない。これから世に出ていくのか、結果的にひっそりと暮らしていくのか、いくらか悩みのあった昨今ではあったが、やはり望みは血が知っているのだろう。意外に幼少の頃から、自分が何に満足するのか、しないのかが、はっきりしていることから「器は体が知っている」という結論に疑いはない。

 どんなに恵まれているように見えても、事実恵まれていても、器にあわない安定感はその人の中で否定される。

 自分自身のことを言えば、若い頃から革命や歴史に自分を投影して生きているわけではなく、常に安定を求めて(とはいえ、普通の人が望むレベルの普通に働いて普通の家庭が経営できる程度の安定ではないんだけれど)来たけれど、それは論理上のことであり、血は恐らく歴史の表舞台に立つことを望んでいるんだと思う。それが出来なくて、40歳以降の余生を安穏と過ごすだけでも別に困らないし、悲しくもないけどね。でも恐らく、それでは血が騒ぐのだろう。論理では自分の器がそんなに大きいことを望まないけれどね。

 要するに、器が大きくなりたいとかいう感覚が僕にはまるで理解できない。いいじゃん、数億円の資産を持って、安穏と余生をリゾートで過ごしてればと思ってしまう。金持ちになる前から金持ち失格。そういう自分の器が恨めしい。