ニートのことの続き

 http://d.hatena.ne.jp/demian/20050619トラックバックを送る日々。
 パソ通の頃の議論ボードを思い出します。カミンアウトを含む。

・日本人以外への生活保護について
 生活保護をうち切るのと、開かれた国というのは別の話だと思うんです。生活保護はうち切るけれど、国は開かれてるっていうので良いと思います。結局は優先順位の問題で、自分の子供が飢えて生活保護を受けられるかどうかという状況に直面しているとすれば、誰を押しのけて生活保護を受けさせるかっていうぐらいの感じです。普通戦略部分では「命を大切にする国・大切に出来る国」というのが僕にはあり、それを突き詰めていったときの論理的な結論だと思います。

・労働と対価について

大金をもらわないと働く気になれない人、というのは実は仕事なんてしたくないんじゃないか、と私は思うのです。そのような人のためにこそ生活保護が必要なのではないか、と。

 まさにそうでしょう。高効率の仕事をしている人の中に、抵抗率の仕事でもやれる人はいると思いますが、高効率以外の仕事が出来ない人はある種の非社会性を持っていると僕は考えていますし、全面的にではありませんが、部分的には僕はまさにそういう人間で、そのためなら実際に死にすら直面し、それを覚悟した過去もあります。

 エリクソンというのは良く知りませんが、税金が高い国で起業しているのは志の問題なんだと思います。

・お金に魂をとられるのこと
 まさに僕が最も啓蒙して回りたいのはこの部分で、お金と自分との距離を多くの人が間違えていて、高コスト体質の人も、お金持ちを嫌う人も、実はお金が嫌いでしかないのだと、僕は常々自分のブログの中でも言っています。今日書ききれるようなことではないですが。

 悪いのはお金ではなく、お金に振り回される人です。これは貧乏人であれ金持ちであれ、お金との距離の取り方に関しては、同じ修行を経験しているように僕には見えます。

・格差上等のことについて

ジニ係数の高いアメリカがどうなっているのか、を見ると(レポートや本で読んだだけですが)「最悪」としか言いようがありません。実際には生存権を剥奪されたような状態の人がおり、お金が無いことから良い教育を受ける機会にも恵まれず、まともな医療を受けることも出来ません。日本でも苅谷さんが指摘した「意欲の格差」の発生という問題があります。

 生存権を剥奪されているのを生存が保証されているとは言わないと思います。その状況を僕は肯定しません。

 現状を状況のせいにして実際には追認しながら、とりあえず生き続けることが出来る人を僕はうらやましく思いますし、そうした思考をしながら生き続けられる人に「明文化できる恨み」を抱いた時期も長くあります。

 今の日本はアメリカの植民地で、得た富はみんなもっていかれるし、資産運用の方法を知らずに老後を迎え、豊かな人生を送っているとは言えない人が多数いますが、その人たちが自らを豊かだと感じているのは、自分がそうした搾取構造の中にいるのを知らないからです。希望と実際の豊かさに相関がないことの良い証左だと考えています。

 僕は精神的に病気だったために死に直面したことがありますが、生き残れればお金のために働く生活をしない確信がありました。自分にとっては生きるためにお金を稼ぐということこそが、お金の奴隷になるということであり、高コストな生活をしたり、自分が何に搾取されて生きているのかを知らずに生きていたりするのと同じ「現状追認的な罪」を生きることになると考えていた部分もあります。現実としては、労働するチャンスすらなかったわけですが。

 だから、僕と比較すれば、自分の所属クラスを認識し、そこで出来ることに論理的なリミッターをかけ、結果的に状況を追認できる生き方は僕より幸せで健康だと思いますし、それを止める気にはなりませんが、所属クラスによる機会の限界があるという考え方は、その現実を追認できるほど健康で幸福な人の考え方であるように見えます。自分のように命がかかるような不健康は実際に死を招くため、決して良いとは考えていませんが、そう考えて生き続けられる人が多数派である状況からは劇的な変化はうまれないと思います。

・僕は総和快楽主義者であり、この主義が世界を救うと考えているので

逆にたくさんの札束がないと働く気がしない、というのはそもそも働きたくないのではないですか。とりあえずきちんとした生活保護があればそれでいいのではないのですか。

という問いには、明確にYESと答えます。僕にとってのユートピアは平等な世界ではなく、個々人が生存の危機を感じずに快楽を追求出来ることだと考えています。快楽の追求は自分自身との向き合いであるため、資産の多寡とは関係なく行えますし、馬鹿馬鹿しいお金の使い方を見ていてもわかるように、資産を持っている人が有利であるとは決して言えないのです。

 お金(ここで言うのは、投資ではなくて消費)は、快楽の追求のためにある程度の働きをしてくれますが、その働かせ方を勉強することは、お金を稼ぐことよりもずっと大切です。そしてこのことに気づいたときに、多くの人はお金から自由になり、お金を好きになることが出来ると僕は考えています。

・下の方の本
 残念ながら読んだことがあるモノは一冊もありませんが、レビューを見た限りではみなさんお金との距離の置き方を現代人が間違っているという視点はお持ちでないように見えます。

 オルタナティブで言えば、多数派が水道水を飲まなくなったときに水道水が変わり、多数派が学校に行かなくなったときに学校は変化しますから、生存のために働かずに死を選ぶ人が多数派になったときに、お金と労働は変化するでしょう。ただし、多数派にそれだけの覚悟があったときだけです。

 何度も言うようですが、多数派が死を覚悟するような状況を僕は健康だとは思っていませんが、過酷な状況を変化させるのは、過酷な認識と、過酷な行動であり、それは間違っても生きるか死ぬかわからない程度の給料で働かされることではあり得ません。

・まとめ
 でみあんさんが感じている危機感は、非常に人間的で知的で合理的だと思いますが、その人間性と知性と合理性を利用して現状の世界の暴走は行われています。世界を変えるのであれば、その本質はこの3つを破壊する活動になるでしょう。そしてそれは、命が危険にさらされることでしか考え方を劇的に変えることが出来ない人が多数にのぼる以上、人の命を奪う活動になるでしょう。敵は常に人の命を奪って成り立っているわけですから、テロこそが敵と同じリングの上にいる政治活動ですし、同時にテロこそが民主主義とは絶対に相容れない政治活動です。

 しかし、世界を変えるよりは自分が変わる方が楽という結論を出すのであれば、搾取する側の行動を真似るしかないでしょう。

 僕は人の命をあやめてまで追求すべき正義を見つけられなかったためテロをあきらめ、そのときに前者を見限り、愚痴を言いながらこの世界の構造に巻き込まれることを自らが悪に生きることだと判断しました。で、成り行き上(積極的に志したわけではない)、命を懸けながら後者の人生を生き、20%ぐらいの確率で生きながらえたと感じています。

 何度も繰り返しますが、どっちの道に進んでも継続的に命に危険が及ぶような人生を健康だとも素晴らしいとも思いませんし、お勧めもしません。僕は不器用で、個性に逆らって生きられなかったため、こうなってるだけです。