なんどでもニートのこと

 昨日書いたのを読み直してみるとニートという表現がほとんど出てこないなぁ。なのでニート問題で補足します。ニート問題の解決策を考える人は多いけれど、実際の社会集合の中でニートは存在しているわけで、考える側の思考や生活様式の中に、ニートを生み出す事情のほとんどが存在(勝ち負け認識の基準など)すると僕は考えています。

 ニートはそうした社会構造から発生したものに過ぎないので「自分が健康でニートは不健康」という枠組みでは恐らく問題の本質にはほとんど迫れないし、迫れたとしても所詮それは対処療法的なものにしかならないでしょう。

 多くのニート論議で不足しているのは「ニート存在につながる自分の中の事情」であり、お金のために働いているのに「働かなくても食っていきたいなんて怠け者の発想だ。ローマにしかそんなものはないし、目指すのは退廃だ」などという結論だと思います。労働の価値を疑うわけではありませんが、こうした既成概念や資産家に対するコンプレックスなど、実際に自分の中で起こっていることに光を当てなければ、ニートには迫れないでしょう。

 また、そうしたニート存在の理由に光を当てずに社会システムを論じてみても、それは自分の体から離れたところにある空論でしかないように見えます。何度も書いているように、こうした論議が自分の存在や生存に過激に直結することが良いと言っているわけではありませんが、敵が存在するとすればその敵はそれらが過激に結びついているわけです。

 反戦運動家とラムズフェルドの戦いってところでしょうか。力無き結論は実現しませんし、結論を実体化するには命を懸けた戦いが必要になるのだと思います。つまり多くの人がそんな風に考えない社会はなるように流れていくしかないわけですから、同じ現状を天気や天災のように変化させられないものと踏まえて、幸福になれるように考え方を変えるのが現実的なのではないかと思います。

 これはニートにも、自分がニート予備軍でないと認識してニート論議する人たちにも言えることなのではないでしょうか。