人生の戦略目的のようなもの(まとまりなくつれづれ)

 普通の生活して普通の人たちとつるんでいると、なかなか普通じゃない人に出会う機会が少ない。だからって、普通じゃない自分でいたとしても機会そのものは減らないんだけど、そのアンテナがぴぴっと来るっていうかんじかな。しかし逆に、一般社会にはとけ込めなくなる。みんながそうってわけでもないのかな。
 ただ、「ホントは教えたくない資産運用のカラクリ」でも「これ読むと普通の生活が出来なくなります」って正直に書いてあるもんね。結局、お金に対する感覚だけだったとしても、センスも終着点も、普通の人にはおよそ理解できないところに突っ込んでいってしまうんだと思う。

 それに釣り合う人が近くにいなかったり、理解してくれる人がいなかったりすると、なかなか淋しい思いをするけれど、実際、後から振り返ってみるとそれはそれでしょうがなかったかなと思う。だって、その路線で成功すればその成功そのものを認めてくれる人は多いんだけど、感じ方や考え方を共有できる人は結局それほど多くないから。で、不遇の時代は周囲から「キチガイ」と呼ばれることになる。たとえば最近であれば、サラリーマンをやめるときに「金払って働かせてもらうなら働ける」という時点で、多くの人にとってはそもそも普通の感じ方じゃなかったし、「そんなの資産家の考え方じゃん」と言われて素直に納得したもんね。

 不遇の時代が無かった人はそれはそれで幸運なんだけど、逆にものを言えるかどうかという点では弱いこともある。例えば僕が今の資本主義社会にまみれているように見えることについて、不快感を示す人(自営業者)も多いんだけど、彼らの多くは資本主義を否定して貧乏まっしぐらになれずに、適当なところで折り合いをつけて仕事をやっていたりする。僕に言わせればそんなつぎはぎでごまかし続けるのなら、また、資本主義の外に出る覚悟と実践を行うのなら「一回、僕ぐらいの筋を通して、僕ぐらいの貧乏をやってみたら?」と言えるわけ。これが言える人は世の中にそう多くはない。実際に言われれば「家族が」とか「女房が」とか「生活が」とか平気で言うんだろう。同じ状況の中、別のことをやれる人はいるのに・・・。結局、一生、彼らは筋を通せない。しかし、理由はともかく、表面上は社会不適合故に金がなかったら金がなかったで僕を相手にはしなかったし、今は今で避ける。僕が考えた理由は「結局、器なのかな」ってところか。

 そしてそれが如実に現れるのは「目標点」。最近「上場を目指す」とかいう人は多いけれど、そんなのは目標には成り得ないことを多くの人は知らない。わかってない。その目標に違和感を覚えないこと自身、そもそも器が不足している。こうした世俗的な「事を成す=金を稼ぐ」と勘違い出来るレベルの志には見えないので、終着点と、日々に不安定感があるのかなぁ。

 11月15日で「アバウトだ」と言っている様に、世間の常識は事をなすにあたってはほとんど非常識だし、多くの人が事を成していないと思うようであれば、多数派の逆をやらないと結果は見えにくいかも。人が努力するところでは努力せず、人が努力しないところで努力するミタイナ感じで。たとえばこれは、就職して一日12時間働くことを努力するのではなく、短い時間でいかに稼いで、仕事と関係なく自分の能力を磨ける環境を整えるとか。

 あー、まとまらない。考えてみれば僕の20代前半はこんな話とは全然別次元に生きてて、自己啓発セミナー行ったりとか、宗教探したりとか、政治家になる道筋を模索して一新塾に行ってみたりとか、まぁ、いろんなことやってたなぁ。普通の人と違っていたのは、それだけの枯渇感だったかも。まぁそれはビョーキ以外の何者でもなかったんだけど・・・。

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