モテと非モテ

 モテなんて変換でも出てきませんでした。こういう論争が世間には存在するようです。
 いまいちわかりませんのは、モテたかったらある手段を講じればいいわけでございまして、モテたくなかったら講じなければ良いということに思えるのです。ただし、世間で言われているモテるための手法は、愛を得るための手法でもなければ、結婚するための手法でもございませんし、場合によっては「そんな方法でモテてもね。そのレベルの人としかつきあえないんじゃないの?」というものも多いように見受けられます。
 なんだかすごくワタクシ自身がもてそうな書き方でございますが、実体的な生態は非モテに属するように思われます。もう10年もユニクローゼでございますし。オホホ。
 結果だけをみれば、数人の女性とつきあってまいりました。結婚以外の交際は長続きしないのが難でございましたが、論争で言われているモテ、非モテのハードルは越えているということで、御看過いただきたく話を先に進めさせていただきます。
 実際、その時々で世間的なモテ要素を満たしていたならば、まだ世間のモテ、非モテの手法や思想に関する論争も興味を引こうというものでございますが、結婚したときとその後数年間も無収入でございましたり、まぁ、およそ世間的なモテ評価の基準を満たすような人間ではございませんでしたので、どうもしっくりこないのであります(徳山弁)。

 あー、やっぱり鬱陶しい。文体戻す。推敲が増えた結果誤字脱字が減るのは良いことだけどね。リズムがつかめない。目指してこういう文体にしたのは13〜14歳、明確に坊ちゃんのリズムをまねてのことなので(成功しているかどうかは別。個人的には独白調と呼んでいる)もう20年も染みついている。聞けばかの作品は17日だかで書き上げたものらしい。

 じゃぁ僕が特別にもてる外見をしているのかというと、まぁ、それはないだろう。鉄板で。平均は切れると思う。身長?165cm。体重?62〜73kgの間。ファッションに使うお金は、年間で数千円ぐらい。ゲーマーではないものの、典型的ではないもののお宅系(どうやら正確にはサブカル系らしいが)で、うんちくは長いし、よーわけのわからんことをしゃべるしゃべる。高校の時も完全にはぐれもので、お宅っぽい友達以外はいない。
 20代は自覚的にメンヘル村の住民。
 どうよ?これがもてる男の生態?まぁ、違うわな。

 しかし、そこからモテ、非モテという意味ではほとんど脱皮することなく、高校時代以降僕は少なくとも数人の女性と連続的に交際し、それなりの数の女性に告られ、同数程度の女性に告白して一応は振られた後に恋人未満になった(毎晩添い寝するぐらい。フレンチキスはしてたな。今となっては本当に振られていたのかどうかが怪しい。言葉の上ではそうだったんだが・・・)。

 モテ、非モテの論争に対して2つの視点がある。

 ひとつは、モテたいのならとりあえず言われたように努力するのがわかりやすいということ。要するに世間で言われているモテというのはマーケティングですから、会社の社長が「稼ぎたい。儲けたい」と言っているのと同じであります。で、煮え切らない社長は「そうはいってもなぁ、そこまでしないと儲からないのかなぁ。良いものつくってるんだけどなぁ」といって延々と儲からない商売をやってます。

 まぁ、非モテ系の人々の多くの反論はこれに見えます。僕に言わせると切迫感がないです。本当にモテたいのならそうすればいいわけで、どこかで腰が引けるとすれば、本当にモテたくはないんでしょう。変化するための準備と要件が整っていないとも言えます。世間で言われている手法は手続きでしかない上、箇条書きに列記される程度の浅いものであり、それをやってからモテなかったらそこから相談になるのではないかと思うわけですよ。


 ふたつめには、世間の言っている手続きを経てモテたとしても、結果的には世間なりのモテ方と人生しか歩めないってことです。つまりこれを詳説すると、20代前半の結婚の60%が授かり婚であり、アメリカでは高齢労働者の多くが貧困層であり長期労働は貧困の代名詞なのに、日本では「もっと歳とっても働かせてくれ〜」といっているし、何割かの親父は娘に嫌われ、熟年離婚される人も数多くおり、40歳すぎてリストラされる可能性が上昇し、リストラされても家族には言えず、というまぁ、おきまりの人生の流れの入り口として、「モテるための手法」が箇条書きになっているような気がするわけです。

 そんな人生が送りたいの?そんな人と出会って結婚して、一般的な家庭を築き、一生を過ごしたいの?というのが僕の最大の疑問であります。そうじゃない人と出会おうと思ったら、まぁ、普通の出会い方では出会えないよね?どうやらここいらが「変わった人」である僕にはいまいちよくワカランとです(ヒロシ風)

 自分にあった人生を生きるために、自分にあった人と出会って結婚しようと思ったら、そもそも出会いが自分らしくないと無理でしょ。まぁ、そんなこたぁ考えないのかなぁ。オタク道を究めたかったら、そのままの自分と一緒に過ごしてくれる人を見つける方が自然だと思うし、ロードスターを極めたかったらそれと共生してくれる人を見つけるべきだと思うんだけどなぁ。

 で、もっと掘り下げるとこうした「自分が力を抜いてつきあうために、今の自分をそのまま認めてくれる人はいるはずだし、そういう人をさがしてみよ〜」という発想に欠けている気がするわけです。「そんなひとはいない」と思ってしまうから、くじけるんじゃありません?

 僕は不潔は嫌いだったけれど、「非モテファッションを気にして僕とつきあえない人はそもそもアウト。金遣いのリテラシーから考えて、そういう優先順位を持つ人と結婚しても支出の費目と金額でぶつかり合うのは目に見えているし、やっぱり普通に人目を気にして、普通の人生なんじゃないかな。外見に金を使うっていうのは、貧乏人の消費行動の最たるものだから、それを修正してくれる気がなければ僕はとはつきあえないよね。清潔さは金がかからないから、追求すべきだけれど」という感じですよ。この感じ。

 力つきたのでこのへんで。