選良意識と平等と啓蒙

 大衆は馬鹿です。仕方がないです。もし大衆が知的になったら、より知的なグループが大衆を馬鹿と呼ぶでしょう。基本的には相対的な話に見えるので、あまりここいらはこだわりません。それにバカバカと言われるのはその知性からだけではなく、精神性も十分に関係あります。
 人は新しい知識を知識として吸収することがほとんどありません。精神的に欲しいものだけを取捨選択して取り入れているわけです。これはすべての人に同じと言えます。同時に、人が何かを判断するときに純粋に知性や知識だけで判断するのはほとんど不可能だと言われています。まぁこれも「理解なんてのはおおむね願望に基づくもの」というのはかなり科学的に証明されているわけです。
 つまり、知識の絶対量を増加させるというよりは、精神的になにかの脱皮をさせるのが啓蒙の主要な活動目標であります。
 上記のテロリストの活動もそのような状況の打開を目的として行われるのですが、一般にジャーナリズムがなにかという議論にも、「すべての真実を見ている人はいないし(現場にいる人すら)、そのすべてを一個人が把握するのも難しいのだから、それを限られたメディア上に載せて誰かに伝えるなど、そもそもが不可能である。であるならば、真実性を最優先するよりは、ある意志に沿った社会変革を目的としたジャーナリズムがあり得るのではないだろうか」という論理は、一面の真実を突いています。
 「あくまでも真実のみを正確に伝えるべき」というのは、そもそもが人間の理解能力を誤解して「真実」という言葉を使っていることがほとんどですし、そもそも、「状況認識」に関して真実というものが存在するという幻想を抱いている時点で大した知性人ではないでしょう。
 で、そう言うことに理解がある人は情報源の確定に血道をあげるわけです。努力は買います。人は向き不向きもあるでしょうし。だからって、あんまり真実には近づいた気がしないので、僕はあまり真実性や情報源の正確さの評価に血道をあげず、伝聞でものを語るようにしているわけです。伝聞だって、情報源の確定には違いないんですが、伝聞であることを明確にした上での言説はこちらの言葉に真実性を持たせようと言う努力を放棄している部分が大いにあるので、話し手も、聞き手も、楽になれると思います。