それにしても浮いた感じはある

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 相当にいろんな問題を提議している文章だ。しかも、現実から遊離している。この文章を書く人こそが、すでに特定の文化の中にしかおらず、今の日本で「社会起業を目指す」とかいう若者の精神性と現実を知らないように思える。
 日本で社会起業というと、結局は稼ぐ能力がない人間がやっているという印象が強い。実際にそうだ。稼げる人の手法を真似する能力がない(精神的抵抗感であったとしても)人が、そうした社会の構成枠の外に出て、唯我独尊のお山の大将を狙うという感じが強くある。
 そうでないならば、なぜ社会起業家の優秀な人が乱立しないのであろうか。そもそも、日本はアメリカほどの富の蓄積が行われておらず、宮仕えでは二十代で億単位の収入が望みづらい。そういう野心と野心を抱く能力を持った人は最初から営利を目指して起業してしまうのである。
 そうした社会の枠からの脱却を目指す人間には、見たところ優秀な人間が少ない。そのような人は僕の周囲にたくさんいる(僕自身そうした外れコミュニティーにまみれている)が、情報の収集にすら失敗している人が多い。世相の問題点すら把握できていない。逆に、極めて退屈な仕事をしている新聞社などに、意外に優秀な人間が集まっているのだが、こちらはこちらで打算が働き、そうそう外には出てこない。これには日本とアメリカの雇用状態の違いもある。新卒がなかった人間はその後も社会のメインフレームに突っ込んでいく機会が極めて少ないのである。普通の人間ならそうした打算が働いて当然だし、打算が働かない人間は力がよほどあるか、世間知らず(情報処理能力が低い)かのどちらかだろう。
 また、そうした傾向を持つ人材を会社が採りたがらないのは、未だに年功序列が厳しいからだろう。能力がある人間が頭角を現しては都合が悪い。自分が脅かされるんだもの。だから、会社はそうした人間を採用したがらない。  そもそも、二十代で億単位の収入を得るという人生のダイナミズムから切り離されているのである。これは社会全体が格差を嫌うため、社会全体が停滞しているというのがあると、僕は80年頃から感じている。あるべき格差がないことで、みんなが守りに入ってしまう。優秀な人間がみんな二十代で億単位の収入を得始めたら「そうでもないんじゃない?」とべつの価値観が出てくるのは当然の話だ。だって、その幸福の典型は、典型でしかなく、それを実現した人が幸せになっていないのを目の当たりにするわけだから。

 つまりは、幸福感の問題なのだが、そこにエティック(わざとカタカナ)や、イーココロを持ち出してお前はどうするつもりなんだよ?とトイツメタイ。

 人が行動を変えるには、その動機が必要だ。それは幸福感の問題になる。金があっても、世間的に成功していても、それがあまり幸福につながっていないという現実を改めて世間が把握した頃、優秀な人間の多数派が行動を変え、それを見て企業の採用が変化する。
 その幸福感の空疎さと、社会起業の意義、問題解決、成功性が両方揃って、社会起業がもっとメジャーになるはずだが、小規模起業セクタにあってさえ、状況の飽和にはほど遠い。耕すべき畑がここにあることを多くの人が知らない。まぁ、僕はこの精神状態、労働時間でこれだけのおこぼれに預かれるのだから、文句を言う筋合いではないが、そうした状況が整って時代の歯車が回るまでには、まだだいぶ時間がかかるはずなのである。

 それから、引きこもりやニートの精神性について、まったく無理解であるように僕には思える。経済が悪い社会では肩を寄せ合って生きていくのが当然なのであって、生活保護すらもらえずにどんどん餓死している現実をふまえれば、親に頼ったとしても生き残れる人が生き残らなければならないのである。自分の収入で食べていけるのは強いものだけだ。どの国に行ったって、弱いものは肩を寄せ合って生きている。核家族の幻想、「人に迷惑を掛けずに生きて行ければ」という親世代の幻想は、高度経済成長時代のものであり、人類史の大半では全く通用しない絵空事なのだ。いい加減にしてくれ。