KMPお金もーけプロジェクト
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好きなことで食えるようになるという目標に向かうお話。僕もいずれ、この手の話が書けるかとも思ったが、こうした目に見える努力よりは、地に足をつける努力のほうが主体であったため、物語にはなりにくいかな。
僕のようにマイペースそのものが他人からみてファースト(流行のスローの対義かも)で、短期であれば大抵のことには普通の人から見て天職であるかに見えるほど体をあわせることができるような、ある種せかせかした人間(機動力があるともいう)にとっては、好きなことが何であるのか、焦らずに向き合う作業が非常に重要であるし、そこに難しさがある。
ま、かたちは違っても、好きなことで食べていくのは結構大変なわけだけれど、こういう前向きなかたちで何かが手に着かない人のための本なら僕にも書けるかもしれない。
この本の随所に出てくるような希望レベルの話で良ければ、二年以内にお金とのつきあいかたに関する本を、その即時性、ある程度のメジャー性、これまでの歩みの特殊性から、書いている可能性は十分にあるんだなと思った。まぁ、人生とはそういうもんだろう。
太公望伝
再読。諸星大二郎。漫画。70歳で彼が世に出た話を読んで、不遇時代の僕がどれほど自分を重ね合わせたかしれない。これから世に出ていくのか、結果的にひっそりと暮らしていくのか、いくらか悩みのあった昨今ではあったが、やはり望みは血が知っているのだろう。意外に幼少の頃から、自分が何に満足するのか、しないのかが、はっきりしていることから「器は体が知っている」という結論に疑いはない。
どんなに恵まれているように見えても、事実恵まれていても、器にあわない安定感はその人の中で否定される。
自分自身のことを言えば、若い頃から革命や歴史に自分を投影して生きているわけではなく、常に安定を求めて(とはいえ、普通の人が望むレベルの普通に働いて普通の家庭が経営できる程度の安定ではないんだけれど)来たけれど、それは論理上のことであり、血は恐らく歴史の表舞台に立つことを望んでいるんだと思う。それが出来なくて、40歳以降の余生を安穏と過ごすだけでも別に困らないし、悲しくもないけどね。でも恐らく、それでは血が騒ぐのだろう。論理では自分の器がそんなに大きいことを望まないけれどね。
要するに、器が大きくなりたいとかいう感覚が僕にはまるで理解できない。いいじゃん、数億円の資産を持って、安穏と余生をリゾートで過ごしてればと思ってしまう。金持ちになる前から金持ち失格。そういう自分の器が恨めしい。